「Wind,cloud,and moonlight」
Prologue 「お父さんっ!!」 嵐の中、無力な木の葉のように翻弄される決して大きくはない客船の甲板に、幼い少年が父親を呼びながら飛び出して来た。 「危ないっ!!」 咄嗟に伸ばした手が幼子の手を掴み、反動を利用して甲板に投げ上げる。 「ミリアっ!!」 入れ替わりに荒れ狂う海面に落ちて行く体に伸ばされた手は、しかし、雨に滑り空を掴かむ。 黒い海面が、白い肢体を飲み込む。 「っ」 漆黒を纏う長身の影が、迷うことなく手摺を乗り越え海面に踊った。 そして――― 「掴まれっ!!」 死者の血に染まった両腕が、生者を助ける為に、打算も何もなく命掬い上げるべく差し伸べられた。 其れは異世界への〈路〉。 夢見る女神の『夢』に、時折何処かが繋がり、時折何かが出会う、『夢』の通い路。 グランヒストリア、と呼ばれる世界に繋がる〈路〉。 1.The moon that went behind a cloud ―――ひゅっ――― 男が発せたのは最期の呼気だけだった。 首に巻きついていた糸が背後から無造作に引かれ、噴水のように紅い紅い鮮血が噴き出し床を斑に染めた。 力無き者達の命を吸い上げて肥え太った体は生白く脹れ、溢れ出す命の源は壊れた噴水のようにむやみやたらと勢いだけはよく飛び出したものの、直ぐに失速したらたらと無駄に大きな肉の塊に沿って重力に従い流れ落ちる。贅沢な衣服に染め広がり、革張りの高価な椅子に施された精緻な意匠を伝い、遠方より取り寄せた芸術品の域に達する毛織物に滴り落ちる。 それだけは、富める者も貧しい者も等しく同じ、一度零れれば二度とは返らぬ紅い紅い血【いのち】の色を闇の色に溶け込ませながら。 ―――ぴちゃ………ん――― 闇の中、暗き色で布地を重く濡らし広がり行く液体が一滴落ちる。 ―――ぴちゃ………ん――― 毛足の長い柔らかな絨毯は本来なら雫を吸い込み音を立てないはずだが、既に十全に液体が滲みた毛織物は繊維が溶けた水溜りも同然だった。 ―――ぴちゃ………ん――― 時計の針のように正確に、時を刻む水琴窟にも似て。 ―――ぴちゃ………ん――― 上方から下方へ、耐え切れなくなるたびに零れ落ちて行く。 ―――ぴちゃ………ん――― 落ちて、撥ねて、混ざり合って。 ―――ぴちゃ………ん――― 夜気の冷気に同化したその液体は。 ―――ぴちゃ………ん――― かつての温もりも最早無く。 ―――ぴちゃ………ん――― 闇の中、その色彩すらも暗く染められ。 ―――ぴちゃ………ん――― 濃厚な鉄錆の臭いを大気に染み渡らせながら。 ―――ぴちゃ………ん――― ただただ、命【とき】を刻んでいた名残のように。 ―――ぴちゃ………ん――― ただただ、死【とき】を示し続けた――― 「………」 手の中の糸を僅かな灯りに翳す。何の変哲も無いそこ等の楽器屋にでも行けば無造作に売られているだろう弦を成す糸は、雲隠れの月明かりにそれでも暗く染まったその身を眼前に示した。 「………どんだけ吸うたんやろぉなぁ」 乏しい灯りの中、何等不自由を感じることも無く常に一番傍に在り続けた『相棒』を仔細に見つめ、琥珀の双眸を眇める。 「どんだけ染まったんやろぉなぁ………」 糸を翳す両手を見上げ呟く声は意識の外の領域、無意識の産物。 かつての色など忘れてしまった。 始まりの無垢さなど最早望むべくも無い。 染まった糸。 染まった心。 「紅い、なぁ」 闇く闇く、黒に限りなく近い幾重にも重ね過ぎた紅き染め。 「もう、元の色なぞ分らへんわなぁ」 分かる術も無い。 何より、彼自身が一番分らない。 ―――ひゅぅ――― 風は弱く、雲は変わらず月を覆い、星明りは乏しい。けれども、闇に慣れた双眸には色彩が無いだけの真昼の視界。 「ええんやけどなぁ、もう。今更やし」 自嘲が、口の端から零れ周囲の闇に溶け込む。 闇は彼の隣人であり、共犯者であり、唯一の庇護者だった。物心付く前から、闇だけが彼を護り慈しんでくれた。 闇の中では、血の半分の源である男は息を押し殺した彼を見つけられず、その理不尽な暴力から彼を隠してくれた。 闇の中では、彼をこの世に生み出した女は彼を見失い、酒に溺れ暴力に酔う夫への身代わりの生贄にはできなかった。 闇の中だけが、彼が極普通に呼吸が出来る時だった。 闇の中だけが、彼が安寧を得られる場所だった。 だから、これは必然だったのだろう。 彼は彼をこの世に生み出させた男と女に売られ、そして、深く暗い『人間の闇』の深遠で生きることを周りに求められ運命られた。 「今更や」 それでも、時折無性に『光』が恋しくなる。 不意に、暖かな明かりが欲しくなる。 まるで体いっぱい伸ばして太陽の恵みを欲する植物のように、両腕をいっぱいに伸ばして光を全身に浴びたいのだ。 生きる為に光合成を行う葉緑体のように、心の中の何かが生きる為の栄養を作らせろと身体の奥で叫び声を上げる。 「後生やから、そない叫ばんとってや」 今更どうしろと言うのだ。 闇に護られ、闇に交わり、闇に慣れ親しんだこの身が、今更陽の光など浴びては燃え尽きるのではなかろうか。否、そもそも里の者が許すはずも無いのだ。 彼が里を抜け、穏やかな暮らしをするなど。 彼が闇の中から光の下へ踏み出すなど。 許されるはずもないのに。 「せやけどっ………」 こんなにも、今、遥か遠くの微かに見える家々から零れる『灯火【ともしび】』が恋しい。 心の奥底が、彼の里とは相容れない闇を払拭する陽光を希【こいねが】う。 「せや、けどっ」 闇に生き、闇に護られてきた者が光を求めることは許されないことだろうか? 「っ!! ラーグっ!!」 大きな水飛沫。 塩辛い水が周囲に撥ね、木の枝に腰を下ろす彼の頬を濡らす。 森の真ん中。 景色が歪み、景色と繋がる。 静かな夜の森と、荒ぶる嵐の海が繋がる。 細い細い〈路〉は、細く細く繋がったまま。 確かに、彼と彼女を繋いだ。 「っ!!」 「っ!!?」 樹上で息を呑む彼の琥珀と、海上で必死で顔を上げる彼女の紫水晶が交わった。 逡巡は一瞬。 樹上を飛び降り、彼は彼女に手を差し伸べる。 「掴まれっ!!」 固い大地を確りと踏みしめた彼の両手は、容易に彼女の濡れた細い体を海上に引き上げた。 「え、っと」 固い大地の上に立つ彼の腕に支えられ暗い海面の上に浮かぶ彼女。 一方から見れば、彼の両腕は『何も無い空間』に忽然と消え。 一方から見れば、彼女の身体は『何もない空間』から忽然と生えた両腕に支えられて空中に浮いている。 「あり、がとう」 嵐の間隙を付いて雲間から射した月明かりが、優しい紫水晶を闇の中に浮き上がらせる。 風にゆっくりと流された雲の隙間から零れた月明かりが、驚きに見開いた琥珀を闇に晒した。 「助けてくれて、ありがとう」 ゆっくりと声が染み渡る。 暖かな想いが萎れかけた心に沁み渡ってゆく。 「………こっち、こそ」 くしゃりと顔が歪んだ。 ああ、光だ。 これが、光だ。 ずっと、もうずっと昔から、欲しくて欲しくて得られなかった光だ。 「あり、がとぉ」 涙が滲んだ。 泣きたかった。幼い子供のように、昔流せなかった分まで、声を上げて泣きたかった。 光は闇を拒まない。闇は光を拒まない。 光と闇は表裏一体で。違う表情【かお】を見せる同じもので。 風が雲を流す。月がゆっくりと姿を現す。 闇は月を浮き立たせ、月は闇に添うて佇む。 闇と光の共演。闇も光も互いを決して拒みはしない。 「俺こそ、ありがとぉ」 微笑んでくれてありがとう。 感謝してくれてありがとう。 出会ってくれてありがとう。 「ありがとなぁ」 力強く伸ばされてきた黒い腕に、そっと白い彼女を渡す。 海水に濡れた栗色の髪と金色の髪が解【ほつ】れて混ざり合い、月明かりに不思議に綺麗に浮かび上がる。 柔らかな紫水晶が喜びに美しく輝き、青玉が安堵を滲ませた。 雨と海水に濡れた腕が嵐の夜から引き抜かれ、静かな森の夜気に揺れていた栗色の髪が風に流された。 「ありがと、な」 細い細い〈路〉の繋がりが切れ、彼と彼女の繋がりも途切れる。 夜の森は何事も無かった顔をして静かに寝息を立て続け、ただ塩辛い両腕だけがほんの僅かに繋がった女神の図りし邂逅の名残を彼に伝えた。 「せやな」 濡れた両手を握りしめる。 「まだ、遅ぉはないよな」 この手は欲しかった温もりを覚えている。 この心は求めていた温もりを覚えている。 「行こう」 ずっと護ってくれた闇から足を踏み出す。 此処は温まった毛布のように優しく護ってくれたけれど。 でも、辛くとも光の下も歩きたい。 「………ありがとぉ………」 噛み締めるように呟いて、彼は森の外に一歩踏み出す。 其処に何が待っているかまだ知らずに、それでも、彼は一歩を踏み出す。 何よりも望んだ彼の『灯火【ともしび】』を得る為に。 2.The smile and getting warm 「あっ、お兄ちゃんっ!! ねぇ、お父さんを助けてっ!!!」 森から出て村へと歩き出した彼の耳に、不意に泣きながら訴えかけてくる少女の声が飛び込んできた。顔を向ければ、森の木の下で細い両腕に必死に父親を抱きかかえて蹲る少女の姿。両目は泣き腫らして真っ赤になっており、見るからに痛々しい。 「どないしたっ!?」 反射的に駆け寄り少女の腕の中で痙攣する父親を覗き込めば、明らかに土気色に変わっている。素早く全身に目をやれば脹脛に鋭い噛み痕がある。 「穴のある硬貨の模様の蛇に噛まれたんかっ!?」 逆三角形を成すこの噛み痕は、猛毒で知られる毒蛇の牙の痕に一致する。泣きながら頷く少女が震える指で差した先には、頭を短剣で地に縫い付けられた件【くだん】の蛇の死体が恨めし気な双眸をカッと見開いていた。 「ちっ!! 噛まれてどれだけ経つ!!?」 「分かんなっ、あっ、あの月が雲から出てくるちょっと前くらいのはずっ」 片袖を引き千切り、足の付け根をきつく縛り上げる。まだそれほど時間は経っていないが、何しろこの蛇の毒は強力だ。彼も以前の仕事で用いたこともあるほどの猛毒。 (間に合うかっ!?) 口の中にもしもの時の為の毒を仕込んでいる彼の口では、毒を吸い出してやることはできない。何より、この蛇の毒を人間如きの肺活量で吸い出すことなど土台無理だ。 「解毒剤っ!! 材料が足りるかっ!!?」 上着を脱ぎ、懐の中に仕舞ってあった袋の中身をぶちまける。素早く中身を確認し、 「ひとつ、足りへんっ……」 少女の顔が絶望に染まる。彼は両手を握りしめ、唇を噛み破るほど強く噛んだ。知っているのに。この蛇の毒を解毒する薬の材料も調合方法も知っているのに。 (お願いや、神様っ! 俺に、命を奪い続けてきた俺に、この命を救わせてくれっ!!) 爪の刺さった手のひらから血が零れ落ちる。 紅い紅い血が、純粋な他者の為の祈りと共に、地に捧げられる。 月が、優しく彼らを照らし出し。 「面白いのぉ、お主。薬草なら幾らでもやれるゆえ使うが良い」 見も知らぬ出会ったばかりの父子の為に悔し涙を零す彼の自分の血に濡れた手のひらに、そっと小さな小さな手のひらが優しく触れた。 「なっ、ん……!!?」 驚きに絶句する彼の手のひらをぽんぽん叩き、深緑の髪と新緑の瞳を持つ手のひら大の爺言葉の少年は足元の地面を優しく叩いた。 「泣いてるこの子等の為に、どうか咲いておくれ」 小さな小さな少年がそう優しく呼びかけた途端、少年が触れた地面から緑の双葉が頭を出し、あっと言う間にするすると伸びると求めていた月色の満月草の花を咲かせた。 「どうじゃ? これで薬が作れるじゃろう?」 夜風に揺れる満月草の下で満足そうに笑う小さな小さな少年に目を奪われたのは一瞬、彼は咲いたばかりの花を丁寧に摘むと、少女から借り受けた小さな片手鍋を気付けの酒で清め、それを器代わりに手持ちの材料と共に器用に小刀の柄で潰し始めた。 月が西に随分傾いた時分。 解毒剤を飲んだ父親は毒の混じった黒い汗を大量に流し、拭った布が体内から排出した毒でどす黒く染まる頃、ずっと失っていた意識が戻ったのか薄っすらと眼を開いた。 「わたし、は……?」 「お父さんっ!!」 少女の真っ赤に腫れた双眸が歓喜に染まり、喜びの涙を零す。彼もほっと一息吐くと無意識に前屈みになっていた身体を起こし破顔した。 「良かったのう。意識が戻ったならもう大丈夫じゃ」 彼らの様子ににこにこと微笑む小さな小さな少年を改めて見やり、彼は首を傾げる。彼はこの小さな小さな少年を知っている気がする。しかし、どうしても思い出せない。眉根を寄せた彼に目を留めた小さな小さな少年は、にこにこと微笑んだまま彼の薬草に染まった指先に優しく触れ柔らかく微笑んだ。 「良かったのう、若き薬師。目の前の命を掬い上げられてほんに良かったのう」 柔らかく柔らかく外見の年齢に似合わぬ深き年月を重ねた双眸で彼を見上げてくる小さな小さな少年に、彼は息を呑み目を見開いた。 薬師、と小さな小さな少年は言った。 幾数多の命を奪ってきた両手を持つ暗殺者の彼を、幾数多の命を掬い上げる薬師、と。 「ぁっ」 涙が、零れた。 熱い涙は夜気に冷えた頬を伝い温め、首を伝って胸元に滑り、心臓にゆっくりと伝い落ちる。 (くす、し……) 涙を零す彼を父子は眩しそうに見つめ、深々と頭を下げた。 「ありがとうございました、薬師様」 「ありがとう、薬師のお兄ちゃん」 『薬師』と言う言葉がゆっくりと胸に沁み込んで行く。 (俺は、そんな風に生きてもええんか?) 殺すことしかしてこなかった自分が、救うことのできる者になってもいいのか? 双眸に戸惑いの色を浮かべる彼の草の汁に染まった指先をちょいちょいと引っ張り、小さな小さな少年が何処からともなく取り出した少年の背丈ほどの苗を彼の手のひらにちょんと乗せ、にぱりと笑った。 「お主に儂の本体の一株をやろう。さすれば、その株を通していつでもお主と共に居ようよ」 手のひらの小さな小さな苗を見つめ、彼は漸くこの小さな小さな少年が何者なのか理解した。 「薬師の神、莱葉【らいは】様……」 唖然と呟く彼の手のひらの上から小さな小さな手のひらを伸ばし、小さな小さな神様は彼の濡れた頬に触れふわりと微笑んだ。 「どうじゃ? 神も人も独りは寂しいが、寄り添い合えば温かいじゃろう?」 夜明け前の大気にまた冷えてきだした濡れた頬をそっと撫ぜ、小さな小さな神様は深い年輪を重ねた瞳で全てを見透かし、それでも彼に微笑みかける。 「この世界に生きる生き物は数多在れど、笑顔を持つは人間だけじゃ。儂は人間【お前たち】の笑顔が好きじゃ。じゃから、どうか笑っていておくれ。儂に出来ることなんぞ高が知れとるが、それでもお前たちの笑顔を護れるなら千の薬草でも生み出してやろう」 未だ涙を零す琥珀の双眸の目元に背伸びをして指を伸ばすと目尻に溜まった涙を懸命に拭い、さらに手を伸ばして焦げ茶色の前髪を撫でる。 「孫のような曾孫のような人の子を儂はまっこと好いておるよ」 無条件に深い深い慈しみを向けてくる小さな小さな神様を手のひらにそっと包み込み、彼は生まれて初めて声を上げて泣いた。 これが、後に薬師の神に聖痕を贈られ彼と三桁を突破する友情歴を築く稀有な薬師と、笑顔が大好きで、笑顔を見るのが幸せな優しい小さな小さな神様との出会いだった。 Epilogue 僅かな後、荒れた波間に浮かんできたのは漆黒纏う青年だけだった。 「ミリアっ!」 額に張り付く濡れた金髪の隙間から眇めた双眸が、見通しの全く利かない漆黒の海原を薙ぐ。 「ミリアっ! 何処だっ!!」 居ない。 何処にも居ない。 決して失えぬ女が、居ない。 「っ!!」 焦燥に焼け付く心に、不意に光が射した。 見渡す限り天を覆う厚い漆黒の雲に切れ間が生まれ、一筋の黄金帯びる月光が瞬間、凪いだ海原の一点を照らし出す。 「ミリ、アっ」 白い頬に貼り付く栗色の髪。 此方を真っ直ぐに見つめる紫水晶の双眸。 何より大切な、失くし得ぬ女。 「ラーグっ!!」 澄んだ声音が、ひび割れかけた心に軽やかに響き渡る。 「ミリアっ」 無意識に泳ぎ寄った腕の中に、愛しい女を抱え込んだ。 ―――ありがと、な――― 嵐の向こうの穏やかな闇から感謝の言葉が優しく二人に降り注ぎ、やがて余韻を残して大気に溶けていった。 「Wind,cloud,and moonlight」END. |