「ナハトの苦労人日記」
1.ある日の攻防 「そう言えば、ナハトってもしかしなくとも経験有るんですか?」 藪から棒に答えにくい問いを相棒が発したのは、そこそこ大きな町の手入れの行き届いた宿の部屋だった。 「お前なぁ、そう言う答えにくい事訊くなよ」 深闇の髪の青年は嫌そうな表情【かお】で、隣の寝台に腰を下ろした白銀の髪の相棒を睨む。 ナハトの表情にくすくす笑いを零すシヴァには、悪びれた様子は全く無い。こういうところは彼らの師匠にそっくりだ。似なくて良いところまできっかり染まっている弟子は、面と向かって言えば嫌そうに顔を顰めるだろう。 「ふぅん……俺で良ければ手解きしてあげましょうか?」 からかい甲斐のある相手をからかうためなら多少の苦労も厭わない師匠の影響をこの上なくしっかり受け継いでいるシヴァは、ナハトをからかうためなら多少体を張っても構わないイイ性格をしている。 今回もまたシヴァの悪い性癖がむくりと首を擡げたようだ。徐に向かいの寝台から立ち上がると、重さを感じさせない独特の足取りで目の前まで歩み寄って来る。歩きながら解いた白銀の髪が、清水のように背を流れ腰を覆う。唇が触れそうな至近距離で、中性的な美貌が艶【つや】やかな夜を彩る華より艶【あで】やかな笑みを浮かべ、両頬を包み込んだ細い指がすっと頬の線をなぞった。 ぞくり。 背を駆け抜けた感覚に気づかないふりをする。相手に気づかれたら益々悪乗りしてくる事は想像に難くない。あの手この手で此方の限界を試す艶を含んだ楽しげな瞳が悪戯に煌く。 「ナハト……」 触れる寸前の唇が、殆ど吐息でできた声で名前を囁く。からかっているだけだと分かっているのに、艶やかに染まった深海の瞳に溺れそうになる。寧ろ、溺れずにいられる人間なんているのだろうか。 あらゆる意味でそろそろ限界だった。 「お前なぁ、いい加減にしとけよ?」 そろそろ堪忍袋の緒が切れてきたナハトは、実に楽しそうにからかってくるシヴァの腕を掴み、有無を言わさず引き寄せ逆に押し倒した。 ―――ぼすっ。 押し付けた寝台から日向の匂いが溢れる。白いシーツに柔らかく広がる、癖の無い白銀の髪。此方を見上げてくる、酷く無防備な二粒の深海。 頭の芯がくらりとした。 象牙色の首筋に歯を立てる。 小さく声を零した薄紅の唇に唇を重ね、声も吐息も残らず喰らう。 音を上げるまで止めてやらないと宣言するように、細い身体を組み敷き深く深く唇を貪る。 そして、しばし――― 離れたのは、押し倒した方。組み敷かれた方はといえば、鳩が豆鉄砲を喰らったようにきょとんとしている。 ナハトは自己嫌悪たっぷりの深い深い溜息を吐くと、シヴァを寝台に残したまま振り向かずに部屋を出て行った。残された相棒は何処か呆然とした態で、押し倒された姿のまま呟いた。 「牙、ちゃんと元に戻ってたんですね」 無意識に左手の人差し指で唇をなぞり、その手で首筋を押さる。 「ずっと失くしたままだとばかり思ってました」 小さく小さく音になるかならないかの呟き。不意に笑いが込み上げる。 ―――くすくす、くすくす。 日向の匂いのするシーツに突っ伏し、シヴァはしばらく笑い続けていた。 その頃、もう一方の青年は――― 「どーしてアイツはこう限界試すような真似ばっかり……」 宿の裏手で、壁に懐いて項垂れていた。 さて、この勝負どちらの勝ちか? |