2.水晶の蝶
 
 もう一度あの時に戻れるなら、今度は自分が相棒を突き飛ばしてやるのに。
 彼を庇って自ら水晶に囚われた相棒を、自分が庇うのに。
 けれど。
 時間【とき】は、決して戻らない。
 
 
 
 透明な水晶に閉じ込められた相棒は綺麗な綺麗な人形の様。その様は琥珀に閉じ込められた蝶に似ている。しかし、シヴァはこんな姿になってもまだ生きている。証に、思い出したように水晶の表面を紫電が迸る。
 衝撃に解けた白銀の髪は水の中に漂うように水晶の中に広がり、強い意志を宿す深海の双眸は瞼の下に隠され、今にも綻びそうな薄紅の唇には満足気な笑み。
「家族の身代わりになれるなら本望だってか?」
 答えが返らない事を承知の上で、幾度と無く問いかけた問いをまた口に上らせる。
 
 時折、無性に腹が立つ。
 
 一緒に行こうと言ったのは、手を差し伸べてきたのは、シヴァの方だったのに。
 ナハトが望むなら、否、望まずとも、ずっと傍にいると約束したのはシヴァの方だったのに。
 絶対に先には逝かない、どうしても逝くなら一緒に連れて逝くと誓ったのはシヴァの方だったのに。
 
 それが、家族と見なした者を放っておけなかったからだなんて事、最初から知っている。
 それでも、自分だから、共に生きるのも悪くないと思っていた事も知っている。
「そろそろ起きろよ。風が恋しくないのか?」
 触れた水晶の檻は、氷よりは温かく、人肌よりも冷たく硬い。
 いつかの温もりを思い出す。人肌特有の柔らかく温かい安心する温もり。
 いつも傍に在ったのに。いつまでも傍に在る約束なのに。
 
 ―――ガンッ。
 
 硬い水晶に両拳を力一杯叩きつけた。
 腹が立つ。どうしようもなく腹が立つ。
「お前なぁ!! いつだって人を振り回すだけ振り回して、からかい倒すだけからかい倒すお前が、どうして人形のみたいに大人しくしてるんだよ!? 束縛するのもされるのも嫌いな癖にっ!! 囚われるのも縛られるのも嫌いな癖にっ!! とことん根っからの風の性のお前が、どうしていつまでもこんな所に留められてるんだよっ!!!」
 奔流の如く溢れる感情が止まらない。抑えても、抑えても、溢れてくる感情の名は『怒り』。どうして誰より自由なシヴァが、冷たく固い檻に囚われてる姿を見続けなければならない? 何日もっ、何週間もっ、何ヶ月もっ!!
 水晶に叩きつけた拳の間に額を押し付け、硬く目を閉じた。 
「いい加減起きろっ!! 自力で起きないなら、無理やりぶっ壊して引き摺り出すぞっ!!」
 できるなら疾うにやっている。でも、叫ばずにはいられなかった。もういい加減見たくないのだ。風を愛する相棒が、風の届かぬ檻に囚われてる姿など。でも、見たくないからと離れる事もできない。
「頼むから、お前まで俺を独りにするなっ。もう、護れずに失うのはごめんだっ」
 ずるずると地面にしゃがみ込む。何度も、何度も、拳を打ち付ける。血が滲むまで、血が滲んでも。限界なんてもうとっくに超えてしまっている。なのに、〈柱〉たるこの心は壊れることもできない。二度の喪失になど耐えたくも無いのに。
「シヴァ……」
 掠れた声が、音にならない声で唯一無二の相棒の名を呼んだ。
 何度も、何度も、声が出なくなるまで。
 呼ぶ。
 喚ぶ。
 何度も、何度も、繰り返し。
 喚ぶ。
 呼ぶ。
 その声に目覚めさせられる。
 その願いに引き寄せられる。
 その祈りに導かれる。
 それが、檻を壊す為の最後の鍵。
 水晶の中で眠り続ける囚われ人は、死に限りなく近い長い長い眠りから漸く目覚める。
 彼岸の淵から戻ってくる。
 
 ―――パリッ。
 
 水晶から幾筋もの紫電が迸る。
 
 ―――バチバチッ。
 
 細い筋は瞬く間に腕よりも太くなり、隙間無く幾重にも水晶を覆いつくす。
 
 そして―――
 
 最早音として認識できない轟音が、鈍器で殴りつけるように当たり一面に衝撃波を放ち、紫電の帳に包まれた水晶は、凄まじい熱と衝撃に溶け砕かれた。
「もしかして泣いてたんですか?」
 衝撃に壁際まで吹っ飛ばされたナハトの上に、何も変わらぬからかいを帯びた声が振ってくる。見上げた視線の先には、相変わらずの悪戯に煌く深海の双眸。彼岸の淵を随分長い時間覗き込んでいたにも関らず、シヴァは変わらずシヴァだった。
 無意識に細い身体を引き寄せ、抱きしめる。両腕に伝わってくる、記憶にある通りの安心する温もり。確りと、力を込めて抱きしめた。肩に埋めた双眸から涙が零れる。掠れた声でなんとか一言だけ、どうしても今伝えたかった言葉を呟いた。
「おかえり」
 シヴァは驚き、次いでとても優しい表情【かお】で微笑んだ。もう二度と失いたくなくて、奪われたくなくて、手加減なしで抱きしめる。さすがに苦しかったのだろう。シヴァは軽く顔を顰め、宥めるように背を叩いた。
「抱きしめるのは構いませんから、もう少し力を緩めて下さい。貴方は馬鹿力なんですから」
 苦しくない程度に緩められた腕は、しかし、離れる気はないと主張するかのように確りとその身を閉じ込めたまま。シヴァは諦め混じりに、呆れた溜息を吐く。
「仕方が無いですね」
 シヴァは自覚していただろうか?
 無意識に浮かべた苦笑は、酷く優しかった。
 

 

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