それは世界に唯一人の存在
 己と対の片翼を持って生まれて来た自分の半身
 あなたにとって
 いつでも安らげる存在で在れるように
 いつでも幸せにできる存在で在れるように
 願うから
 祈るから
 
 
 
Half wing angels
〜I was born to meet you〜
 
 
 
Act.0 寂しい瞳に映るもの
 
 ―――二つの寂しい心が出会うとき―――
 
 
 
 止め処無く降り続く水の雫は、天の彼方より下界を見下ろした女神の流す涙の様。
 
 一日中、夜の如く暗い空だった。本来地上を照らすはずの日の光は厚い雲に遮られ、夜明けを迎えても一射しも地に蠢く者どもに与えられる事は無く、それはまるで明けない夜の様だった。
 天から降り注ぐ容赦の無い雨は、その中で漆黒の凶器を構える女性から無慈悲に体温を奪い続ける。紙の様に白い顔をしながらも彼女に雨を避ける意思は窺えない。
 ―カチャ―
「幾ら防水加工してあるからって本当に大丈夫なのかしら?」
 銃火器って基本的に水気厳禁よね? 
 雨曝しのビルの屋上で濡鼠になっている女性はライフルを構えた。
 
 彼女が冷たい冬の雨に打たれながらビルの屋上などに居るのは、彼女に与えられた任務を遂行する為だ。
 彼女に与えられた任務は、此処から約1km離れた高層ホテルの一室で行われる自国の諜報員と某国の諜報機関との取引の現場を確認し、自国の人間を始末する事。以前から情報の漏洩については分かっていたのだが、漏洩先や他に仲間がいないか探る為に泳がせていたのだ。そろそろ探り終えた事もあり、今回の取引の際に相手の目の前で裏切り者を殺す様命じられている。
 某国の諜報機関の人間に手を出さないのは今回の狙撃はあくまで彼等に対しては牽制を目的としていて、その内に政治的な取引材料としてでも利用する腹積もりなのだろう。
 
 ターゲットである男も警戒していて、取引に使用する部屋はホテルの最上階で窓にはカーテンが引かれている。ホテルの窓は全てすぐ傍を走る数車線を有する幅の広い道路に面していて、この辺りで一番の高さを誇るが故に道路を挟んだ向かい側には近辺に位置といい高さといい狙撃できそうな立地条件を満たす建造物は無い。
 結局、最も件のホテルに近く位置も高さも狙撃に適した場所が現在彼女が居るこの屋上なのだが、最も近いと言っても約1kmも離れている。的は小さくカーテンも引かれている為狙いを定め難い。
「何とかと煙は高い所が好きってのが相場とは言え、何も高層ホテルの最上階で取引しなくったって良いじゃない。大体ああいう高さを売りにしてるホテルの最上階なんて幾らするのよ」
 何と無く理不尽なものを感じつつ濡れて滑り易くなっている銃を両手で確り構え直す。
「こんな最悪の視界の中で、濡れて滑り易くなったライフル構えて、あんな小さな的を打ち抜かなきゃなんないなんて最低」
 3歩先も見えそうにない土砂降りの雨の中では命中率は落ちる一方だ。体力も冷たい天の雫に打たれ続け、自分でもはっきりと分かるほど確実に奪われていっている。時間が経過するほどに仕損じる確率が上がっていくだろう。どうでも良いからとっとと取引を始めろ、というのが彼女の偽らざる本音である。
 そんな最悪な状況の中でも彼女に運が向いているのか、男が運に見放されたのか。今日のこの天候の為部屋の中には照明が点けられ、内側から光を受けた窓はカーテン越しに影絵の様に彼等の姿を映し出し、彼女に的と牽制相手の位置関係を明確に教えている。
「恨みはないけど仕事だからね。悪く思わないでよ。裏切る以上、制裁を受ける覚悟くらいできているでしょうけど」
 ふと脳裏に浮かんだのは、もうすぐ子供が生まれると言って照れた様に笑っていた元同僚の顔。その嬉しげな表情を微笑ましく感じたのを覚えている。
 そう、今から殺そうとしている男は元々彼女の同僚だったのだ。共に一つの任務を手がけた事もあるし、互いの背を守り合い銃撃の中を駆け抜けたこともある。
「後味悪い仕事回してくれちゃって……」
 仕事においてだけとは言え、それなりに親しくしていた相手だけに後味の悪さも格別だ。
 寒さに唇を紫色に染めながら彼女は忌々しげに舌打ちする。嫌な仕事だ。だが、どれ程嫌悪を抱こうと拒む事は出来ないのだ。拾われた身に拒否権等在ろう筈も無いのだから。
「…………殺すわよ。殺せばいいんでしょ」
 この心も、意思も、自我も、いっそ殺してしまえば、この手が血に染まる事にも何も感じなくなるのかもしれない。そう、人を殺す為に育てられた人形になれば、慕わしい人でさえ何の感慨も無く殺せる様になるのかもしれない。例えそれによって己の精神【こころ】が永遠に壊れたまま元に戻らなくなったとしても。
 殺せばいい。
 ――――――殺して、しまえばいい。
「一々気にかけてたって仕方のない事くらい分かってるもの」
 とっくの昔に血塗れになっているこの手が更なる血で染まろうと今更なのだ。
「分かってるわよ…………」
 それでも、殺しきれない心は事有る毎に血を流し、彼女だけに聞える悲鳴を上げ続ける。
 本当は何時だって癒される事を希んでいる。こんな自分でも生きていても良いと許してくれる存在を欲している。
 
『俺、父親になるんだ。』
 あの時、心のどこかで彼を羨ましいと感じていた。生きていても良いと、生きていて欲しいと全身で訴えてくれる存在を手に入れようとしている彼が心底羨ましかった。
 
 改めて照準をターゲットに合わせる。手入れの行き届いた銃はそれの持つ存在意義の重さとは裏腹に、たった指一本分の力を込めただけで滑らかに引き金を動かした。
 ―パスッー
 冗談みたいに軽い音とともに一人の人間の人生の幕が降ろされた。
 
 
 誰デモ良イ。
 私ニ生キテイテモ良イト言ッテ。
 生キル事ヘノ許シヲ下サイ。
 
 
 
 ―――触れ合った心はどのような妙なる音色を奏でるのか―――
 
 
 
 止め処無く降り続く水の雫は、天の彼方より下界を見下ろした女神の流す涙の様。
 
 一日中、夜の如く暗い空だった。本来地上を照らすはずの日の光は厚い雲に遮られ、夜明けを迎えても一射しも地に蠢く者どもに与えられる事は無く、それはまるで明けない夜の様だった。
 天から降り注ぐ容赦の無い雨は、その中を傘も差さずに歩く少年から無慈悲に体温を奪い続ける。紙の様に白い顔をしながらも彼に雨を避ける意思は窺えない。
 ―――
 急ぐ素振りも無く一定の早さで歩みを進めていた彼の足がふと動きを止める。殆んど音を立てていなかった少年の足音が止むと、空間を満たすのは天より落ちてくる雫と地を伝い流れ溜まる水が触れ合う音のみ。数秒、その身を包み込む自然の奏でる音色に耳を傾けた後、少年は微かに首を傾げると再び歩みを再開する。
 ―――
「何だ?」
 しかし、数歩も行かぬうちに少年はまた歩みを止める。耳を済ませて周りの音を探るが、聞こえてくるのは先程と同じ雨の音のみ。何の気配も無くしんと静まり返っている。
「やっぱ気の所為か」
 小さく呟いてもう一度歩き出そうとした時、
 ―――にー
 今度こそ間違い無く聞えて来た声に少年は三度歩みを止めた。
 
 すぐ傍に在った小さな公園の小さな木立の下。葉がすっかり落ちた後の寂しい枝振りは雨を防いではくれず、その下に置かれていた横倒しになった小さなダンボール箱はすっかり水浸しになっている。少年の気配に気がついたのか、箱の陰から小さな子猫が這い出して来た。子猫は冷たい雨に震えながら少年を見上げ弱弱しい声で「にー」と鳴いた。
「子猫?」
 そっと手を差し伸べれば、温もりを求めるように少年の手に濡れそぼった顔を摺り寄せる。
 本来なら艶やかな漆黒の毛並みをした姿は美しさすら感じられるのだろうが、雨に濡れた毛が身体に張り付いている今は濡れ雑巾の様に見える。しかも、恐らくダンボール箱から出ようとして壁をよじ登っていた際に子猫一匹分の重さが一側面にかかった事で横倒しになった箱から放り出されでもしたのか、毛には泥が斑に飛び跳ねみすぼらしさとともに痛々しさを感じさせた。
「にー」
「お前も独りなんだ」
 自分の身を自分で守る事も出来ない、一人では生きる事もできない、小さくか弱い存在。
 小さな弱った身体で必死にしがみ付いてくる子猫は酷くいじらしく、少年は自分でも意識しないまま優しい優しい微笑を浮かべた。
 それは、まるで痛みも哀しみも心細さも全てを包み込むような天上の微笑み。
「おいで、雨風凌げる場所くらい提供してやるよ」
 例えそれが同情に過ぎないとしても、あの日許されなかった己の変わりに許したかった。
 許されたかった。
 ――――――許して、欲しかった。
 差し伸べていた手で子猫をそっと抱き上げる。少しでも雨を遮れる様に懐深く抱きかかえられた子猫は、温もりに安堵したのか喉をごろごろ鳴らす。
「……お前は、温ったかいな………」
 少年の優しい腕の中で、子猫はか細くも嬉しげに「にー」と鳴いた。
 少年は改めて確り子猫を胸に抱えなおすと、路面上を厚い絨毯の如く覆う雨水を跳ね上げながら3歩先も見えないような土砂降りの中を駆け出した。
 
 
 誰デモ良イ。
 俺ニ生キテイテモ良イト言ッテ。
 生キル事ヘノ許シヲ下サイ。
 
 
 ―――片翼しか持たずに生まれて来た天使たちは、別たれて生まれた片翼を求め合う―――
 
 
 
 硝煙を纏わり付かせたライフルを下ろす最中に一瞬視界を過ぎった光景。ライフルの照準越しに見た優しい優しい天上の微笑み。
 その腕の中の子猫になりたいと思った。
 
 
 ソレガ何ヲ意味スルノカナンテ、私ハ知ラナイ。
 ――――――私ガ知ラナイ。
 
 
 
 走る少年の耳に微かに誰かの悲鳴が聞えた気がした。走る速度はそのままに周りを見回せば視界の端をこの辺りで一番高いビルが掠める。
 誰かの寂しい心を感じた気がした。
 
 
 ソレガ何ヲ意味スルノカナンテ、俺ハ知ラナイ。
 ――――――俺ガ知ラナイ。
 
 
 
 ―――『君ハ、誰? 』―――
 

 

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