貴方が、好きです。
 叶わない恋だと知っていて、諦めきれないほど。
 
 貴女が、好きです。
 自覚してはならない恋と知っていて、想い続けてしまうほど。
 
 アナタヲ愛シテイマス
 
 
  
Morning, noon, and night
〜kiss me quick〜
 
 
 
Act.0 始まりの夜〜悪夢か奇跡か〜
 
 走って。
 走って。
 ひゅーひゅーと喉の奥から掠れた息が漏れ出る。
 苦しくて。
 苦しくて。
 ぜぇぜぇと喘ぎながらも、止まらない。
 止まれない。
 だって、止まればあいつ等に捕まってしまう。あの恐ろしく、汚らわしい男達に捕らえられてしまう。
 恐怖が蟲の様に背筋を這い登る。その感触に声にならない悲鳴をあげ、苦しい息の下からさらなる苦痛を呼び寄せる。足はもう棒のようで感覚すらない。ただ、機械のように前後に動かし続ける。少しでも速く、少しでも遠くに。
 恐怖と。
 嫌悪。
 あいつ等に捕まるなんて嫌。絶対に、死んでも嫌だ。
 あの欲望にぎらつく瞳。幼い四肢を押さえ付け、嬲り、辱め、暴行と陵辱の限りを尽くさんと喜悦に染まる眼。爬虫類に例えたら彼等が気を悪くするような吐気すら覚える眼差し。そして、さんざん貪り尽した身体を切り刻み、憎い男へと送りつけるという。リーダーと思わしき男が、震えながらも気丈に見返した己に、下卑た笑みを浮かべながら嬉々として語ったのだ。あいつ等は、あいつは、父に復讐する為に娘たる私に在らん限りの非道を尽くし、それを全てビデオに納め父に送りつけるのだと。
 
『そう、まずはお前を狂うまで陵辱しよう。その身体を嬲り、弄び、男を知らない真っ白な身体を汚し尽くしてやる。
 薬漬けにするのも良いな。生意気な目が苦痛と嫌悪に歪みながら快楽に染まるまでたっぷり可愛がってやるよ。いっそ、男を誘う様になるまで調教しようか? 死んだ妻に瓜二つの娘が、何処の誰とも知らない男達に足を開くのを見せたら、どんなになるだろうな?
 あいつが狂うまでビデオを送り続けるのも良いな。そう、送る度にお前の身体の一部も同封しよう。なに指の一本や二本で死にやしない。そして、あいつが狂う一歩手前でバラバラのお前とご対面させてやるのさ。もちろんビデオ上映と一緒になぁ!!! 』
 
 残虐極まりない狂気に蝕まれた沙汰。聞くに堪えない醜悪な哄笑を響かながら、幾人もの男達が一斉にまだ十にも満たない小娘に腐臭すら漂う魔手を伸ばす。そんな卑しい手を掻い潜り少女は脱兎の如く逃げ出した。
 少女を狂気の男達の真っ只中に放り込んだのは、父の秘書の一人で、狂気に満ちた呪言を吐いた男だった。
 何故、彼がこんな真似をしたのかなんて少女には分からない。分かるのは良くも悪くもその言葉に嘘偽りは一片も含まれていないと言う事。何の慰めにもならない真実に少女は涙を零し、真珠の如きその雫もさらに少ない体力を削り取っていくだけ。
 懸命に動かし続けた足も、もはや持ち主の意思さえ届きそうに無い。少女の願いとは裏腹に、錆付いた機械の如く軋みさえ聞えそうな様子で止まって行く。背後から複数の足音が迫り来る。何時の間にか追い込まれた廃ビルの屋上。背後にあるのは深き闇に沈む地上。少女は、覚悟を決めた。
 
 ――――――死ぬ、覚悟を。
 
「あ、っんな、や、つらの、思い、っ通り、になっんて、絶っ対に、っなる、もんかっ!!」
 この身も、誇りも、あんな奴等如きに汚されてやる程安くは無いのだ。叶わないと分かっていても、慕い続けずにはいられなかったこの想いを土足で踏みにじる事など誰にも許さない。まして、自分を復讐の道具にしようなんて下衆がこの身に触れよう等と、千々に引き裂かれた方がマシだ。
 少女は手摺りに背を預け、息を整える。余り時間は無いけれど、最期は毅然として居たかった。少女が息を整え男達がやって来るであろう入り口を見据えた時、屋上の扉が軋んだ悲鳴をあげて蹴破られる。男達の顔は愉悦に歪み、逃げ場を無くした獲物をニヤニヤと眺める。少女は顔を上げ昂然と見返し、いっそ傲慢な程艶やかに微笑んだ。
「生憎、気安くどうこう出来る程安くは無いの。それが下衆なら尚更ねっ!!」
 言葉と共に、両足で力強くコンクリートを蹴り付け、両手を手摺に付き身体を持ち上げるようにして大きく後ろに倒れ込む。大人の胸の高さの手摺りの上を少女の最期の願いのまま華奢な肢体が越えて行き、遥かなる地表に広がるネオンの海にダイブする。獲物を追い詰め、逃げ場はないと余裕をかましていた男達の唖然とした顔が視界を過ぎり、最後の最期で一矢報いてやれた事にささやかな満足を覚え、笑みを深くする。
 そして、人口の星々の海に背中から飛び込みつつ、向ける視線の先、闇の中に浮かぶのは――――――愛しいヒトの姿。
 哀しむかな。泣いてくれるかな。少しは寂しいって思ってくれるかな。そして、ちょっと位は覚えていてくれるかな。
 母さんみたいに貴方の心に住まう事が許されるならどんなに嬉しいだろう。
(叶うはず無いけれど、良いでしょう? 最期くらいとびきり甘い夢を見ても)
 
 成人男性すら叩き伏せる強さと論破してのける頭脳を持つ人。
 どれだけ傷ついても、その傷すら輝きに変える強靭なる精神【こころ】を内包する人。
 その眼差しに迷いなど無く、嘘偽りも無い。何時だって、真直ぐに前を向いている人。
 幼い頃から人の世の汚さを数多映しながら、曇る事無い極上の青金石【ラピスラズリ】の双眸を戴く人。
 何時だって、何処でだって、唯一人に向けられる揺ぎ無い想いを抱いている人。
 その想い故に私を護る事を約束した人。
 ――――――一途で、真摯な想いを、母に、捧げる、男【ひと】。
 
 想いが溢れる。それは涙の形をとって心の外、身体の外にまで溢れ出す。
 きっと叶わない。彼が己を見ることなど無い。あの想いがある限り、彼が彼である限り、この想いが報われる事など無い。そんな事分かっている。今更、分かり過ぎるほど、分かっている。でも、それでも、消せない想いを抱いてしまったから。
「…………愛し」
 目の前に滲む想い人の面影にいつか告げたかった言葉を紡ぎかけた時、夜を泳ぐ少女の身体が黒銀の風に絡め取られた。まるで、海底を目指しながらも浮力に抗い切れずに浮上するかのように、疑問すら差し挟む隙無く、自然の摂理の如く地表から遠ざかって行く。
 さながら飛翔しているように。
「っえ?」
 少女の目に映るのはもはや夜の闇ではない。金属で随所を補強された黒革のジャケット、半分下ろされたジッパーから覗く無地のアンダーシャツ、風に弄られる漆黒の短髪、人に在らざる縦に細い瞳孔の金瞳、そして、銀色の皮翼。
 力強い腕が少女の肢体に確りと回され、触れ合った箇所から温もりが伝わってくる。温かく、安心感のある大人の男の身体。
(後数年すれば、ラスもこんな風になるのかなぁ)
 未だ状況を把握できぬまま、ぼんやりとした頭にふと浮かんだ考えに少女の白磁の頬が薄く染まる。
(そんな場合じゃないでしょっ!!)
 邪魔にならない程度に、でも気分的には思いっきり、ぶんぶんと頭を振って思考を立て直す。いつまでもぼんやりとしてはいられない。いったい何がどうなっているのだろう。彼は誰で、何故自分を? 
 とにかく何か話さなければ、と何時もよりずっと鈍い反応しか返さない己の脳に叱咤しながら言葉を探しているうちに、彼等は瞬く間に少女が飛び降りた屋上に降り立った。そこには先程の男達がまだ屯って居て、文字通り舞い戻ってきた少女の姿にぎょっとしたように後退る。男達の大半が足元に注目した気持ちは分からないでもない。
 浮き足立つ男達が体裁を整える前に、不思議な青年が人に在らざる双眸で男達を睨み据えた。
「下種どもがっ」
 青年が吐き捨てたと同時に、青年と少女の周囲、直径一メートル地点から同心円状に強烈な『力』が放たれた。
 一瞬にして放射線状に罅割れが走ったかと思うと、ビルの屋上を構成するコンクリートや鉄筋類が、風に煽られた紙よりも容易く捲れ上がる。
 驚きに目を見開く少女を素早く青年が抱き寄せ、その視界と聴覚を塞ぐ。それ故に少女は、突如として現れた阿鼻叫喚の地獄絵図も、恐怖の悲鳴や耳障りな絶叫も知覚せずにすんだ。
 しかし、何が起こったかは聡明な少女には手に取るように分かった。少女の息を飲む音に重なるように、男性にしては高く濁りのない透明な声が、屋上に澱む狂気の残滓を切り裂いて響く。
「気にするな、因果応報だ。他者を傷つける者は、より強い者に傷つけられても文句を言う資格など無い」
 怒りと嫌悪を押し殺した抑揚の無い声に青年の身体から怒りの炎が立ち昇る幻影を見て、少女は青年に抱き寄せられたまま戸惑った眼差しを向けた。
(どうしてこの人は、こんなにも私の為に怒っているのだろう)
 青年の怒りは少女のためだ。少女のされた仕打ちに、少女を襲った理不尽な災悪に、これほど怒っているのだ。
(でも、どうして?)
 さっき会ったばかりの人間の為に、どうしてまるで身内のように怒っているのだろう。
 青年は一呼吸間をおいてそっと少女を放した。その顔にはもう負の感情は無く、静かな眼差しが少女を見つめていた。
「私が家まで送って行ってもいいが、私と必要以上に関わり合うのはお嬢さんの為にならないだろうな。お嬢さんを探している家族がいるな? その近くまでなら送っていくから保護して貰え」
 そう告げた後、青年は何かを思い出したかのように一度ゆっくり瞬きすると少女の前に跪き視線を合わせた。
「コレをお嬢さんに返そう」
 青年が少女の首元に手を伸ばす。首筋に軽い違和感と重みが加わったかと思うと少女の胸元で一粒の水晶が光を弾いた。
「コレはお嬢さんの父親から預かっていた物だ」
 少女は訝った。父がこんなものを自分に与えないだろう事など少女が一番良く知っている。何より、何処か裁き手のイメージを持つ目の前の青年と、清き流れすらその存在によって汚泥に変えそうな男との接点が見出せない。
 思い悩む少女をその悩みごと包み込むように、青年は口の端に優しい微笑を浮かべると柔らかく少女を抱き寄せた。その瞳には遠き過去を辿るような懐かしさと一抹の寂しさが滲んでいる。少女は身動ぎ一つせず青年の抱擁を受けた。何故かは分からないが、今、動いてはいけないような、この空気を乱してはならないような思いに囚われたのだ。
 永遠にも感じた数瞬後、青年の腕の中から解放された少女の耳に慌しく階段を上ってくる足音が届いた。耳に聞きなれた愛しい人たちの声が自分の名を呼んでいる。
「ラス!! アルフ!!」
 大部分が崩壊した屋上で辛うじて無事だった唯一の出入り口に体ごと振り向き家族の名を叫び返すのと、扉の無い四角く切り取られた壁の穴から少年と若者が雪崩れ込んで来るのは同時だった。
「ダリアっ!!!」
 先陣を切って乗り込んできた少年が、きっちり崩壊から逃れた屋上端の少女の下へ、屋上に転がる男達を蹴散らし踏み付けながら一心に駆け寄って来る。一歩出遅れた若者は屋上の惨状を見て鋭く息を呑んだが、少女の姿を視界に納めた途端、少年同様に転がる『塵』を歯牙にも掛けず真っ直ぐに走り寄ってきた。青年はその様を見て、そっと少女の背を彼らの方に押し出した。
「送るまでも無く迎えが来たな。なら、私は退散しよう」
「っちょ、あのっっ」
 戸惑う少女に青年は優しい眼差しを向けると、優しく微笑み頭を撫でた。そして、少女が駆けつけてきた家族に保護されたのを見届けると同時に、重力を感じさせぬ所作で手摺りの上に舞い上がり、銀の皮翼を広げ飛び去って行った。
 遠く、小さくなっていく青年を見送りながら気付く。
「……お礼、まだだったのに…………」
 少女の呟きを風が散らした。
 
 
 少女が男達の犯行の動機を知ったのは全てが終った後だった。
 あの後、元秘書を始め片手片足を失いながらも辛うじて生きていたらしい男達は、アルフが連絡した警察に捕まった。
 男達は全て元秘書の男に金で雇われた者達だった。今回の件だけでなく以前から女性に対する犯罪に関っていた疑いが濃厚で、既に幾つもの埃が出て来ているらしい。
 そして、元秘書の男が狂気に走った理由は、彼の妹の死だった。彼の妹は地位ある男に一方的に恋慕された挙句、無理矢理薬を使って弄ばれ、しかもその時のビデオをネタに何度も関係を強要され、絶望し、自殺した。
 彼が少女にしようとした事は妹が受けた仕打ちそのものだった。
 男は、留置所の中で隠し持っていたガラスの破片で喉を切り裂き死んだそうだ。最期まで、狂った哄笑を響かせながら。幾度も幾度も自ら傷つけていたという。
 ――――――彼の妹を自殺に追い込んだのは、少女の父親だった。
 男に同情するつもりはないし、その行為を許すつもりももちろん無い。それでも、少女は己が心のまま行動を起こした。
 少女は持てる力を全て用いて父親を権力の座から引き摺り下ろし、社会的に抹消した。そして、母方の叔父を代理人に空席に自らが納まった。
 
 
 
 それは10年前、その年一番の寒さを誇った冬の日の事。
 少女は9歳だった――――――――――
 

 

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