「夏の幻」
 
「ああ、もうっ! 何処に行ったのよ、あの馬鹿は!!」
 本来なら辺りに響き渡るだろう大声は、発した端から大気に溶け、何処かに吸い込まれていく。
 肌に触れる空気はひんやりとしていて、まだまだ残暑の厳しい真夏のはずなのに凍える寒さに体を震わせた。
「う〜〜、一寸先も見えないってこの事ね」
 人の分け入れぬ深山は巨木の枝葉に天【そら】を覆われ元より陽の光すら通さず、十二分な陽射しを得られぬ下生えは専ら大地にしがみつく苔ばかりで、深く濃い霧に包まれた今、それらは水滴を含んで青々と濡れそぼっている。
「もう。本当に何処行ったのよぅ」
 一歩踏みしめるたびに足の下で水が噴出す感触に、何か体液と皮だけの生き物を踏み殺して歩いているような嫌な感じが消えない。
 
 獣の息吹が感じられない。
 鳥の鳴き声がしない。
 虫の音が聞こえない。
 
 しんしんと静寂が降り積もる。
 こんこんと孤独が沸き出でる。
「っ」
 訳も無く、強い衝動が駆け抜ける。
 怖いのか、恐いのか、それすら判らず。
 寂しいのか、淋しいのか、それすら解らない。
「ねぇっ!! 何処行ったのよぉっっ!!!」
 思い切り腹の底から声を出しても応【いら】えは返らず、唯々どこぞに吸い込まれていく。
「っ!!」
 愚の骨頂だと分かっていながら、それでも足先からひたひたと上ってくるモノに耐え切れず、何処とも知れぬまま衝動に任せて走り出そうとして。
「っ!!?」
 不意に腕を取られ、押し止【とど】められた。
「ぁっ」
 強張った顔で振り向いた先のよく見知った優しい微笑みに、すっかり硬くなっていた四肢からすとんと力が抜る。気を抜き過ぎて膝がから崩れ落ちそうになった体を、存外確りした腕が抱きとめた。
 無意識に安堵の笑みを浮かべ、慕わしい名を呼ぼうとすれば、骨張った細い指がそっと唇に当てられた。瞳に疑問を浮かべれば、優しく微笑んだまま自分の唇にも反対の手で人差し指を当て、ふるふると頭【かぶり】を振る。
(喋っちゃいけないの?)
 唇だけを動かして問えば、こくりと肯きを返され、唇に触れていた左手がそっと右手を取り確り握った。
 一歩踏み出し、右手を軽く引く。
 優しい優しい笑み。
 見慣れた、大好きだった、今でも一番好きな、微笑み。
 一歩、踏み出す。
 また一歩、手を引かれる。
 また一歩、踏み出す。
 手を引かれて歩きながら、視線を落とし一回り大きな手に包まれた己の手を見る。
 
 何処か儚げに見えていたこの人を、いつか自分が護ってあげようと思っていた。
 優しい優しい微笑みに知らず混じっていた一抹の寂しさを、いつか自分が拭ってあげようと思っていた。
 大好きだったこの人の傍らに、いつでも自分が居ようと思っていた。
 それで、そんなことで、この人が本当に笑ってくれるなら、どんな暗い道だって迎えに行けると思っていた。
 
 優しく、でも確りと握ってくる左手を、ぎゅっと力を込めて握り返す。
 この手を離さないように。
 この手が離れないように。
 せめて、今一時だけと分かっているからこそ、決して、絶対に、離れたりしないように。
「っ」
 確り手を繋いだまま、背の高いその人の腕に頬を寄せた。
 
 
 
 どれだけ歩いたのだろう。
 いつの間にか濃霧は晴れていて、あれほど恐怖を煽り立てた水を含んだ苔の感触も、今では乾いた天鶩絨のように優しく暖かな感触を伝えてくる。
 あとどれくらい一緒に居られるのだろう。
 そっと手を引かれ前方に視線をやれば、木々の切れ間に真夏の陽射しが見えていた。
 
 ―――ミーン、ミーン。
 ―――ジーワ、ジーワ。
 ―――シャワシャワ。
 
 消えていた虫の音が、熱気と共に冷えきった肌を包み込む。
 思わず繋いだままの右手を胸元に引き寄せ、冷たい左手を両手で抱え込んだ。
 頑是無い子供のように俯いたまま頭【かぶり】を振れば、幼い子供の稚【いとけな】い我侭に困ったような笑みを浮かべて覗き込まれ、優しい優しい眼差しでそっと静かに左手を抜き取られた。
 太陽の熱が大気を暖めるにつれ、傍に在った熱の無い気配が薄くなっていく。
 別れるのが辛くて。
 でも、見送らないのはもっと辛くて。
「っ」
 顔を上げた視界の中で、ゆっくりと薄くなっていく愛しい人の姿が水を隔てたかのように揺らぐ。
 両脇でぎゅっと拳を握りしめ、少年のように袖で乱暴に涙を拭う。消え逝く姿をはっきり視界に映し、強気な笑顔を浮かべれば、大好きな優しい笑顔を返された。
「元気で」
 昔と同じように優しく頭を撫でる手のひらを最後に、夢幻【ゆめまぼろし】の如く全てが消え失せた。
 
 ―――ミーン、ミーン。
 ―――ジーワ、ジーワ。
 ―――シャワシャワ。
 
 虫の音が聞こえる。
 鳥の鳴き声がする。
 獣の息吹が感じられる。
 
 なのに、一番愛しい気配は、もう何処にも無い。
 
「菊香っ!!」
 聞き慣れた声が、幾分焦りを含んで名を叫んだ。
「白虎」
 中途半端な長さの淡い彩の髪を項【うなじ】で無造作に括った青年が、人に有らぬ虹彩の細い黄玉の瞳に安堵を浮かべて駆け寄って来る。
「菊香、無事だったか。此岸と彼岸の狭間で逸【はぐ】れたと気づいたときは肝が冷えたぞ。無事で何よりだ」
 温かい手のひらが頬を包み、しかし、すぐに離れて左手を取った。
 男にはきっとそれで全て分かったのだろう。
 手を引く男に、絶対振り向くなと思った。
 絶対、絶対、振り向かないでと願った。
 何だかんだ言っても根が優しく聡いこの男は、決して振り向かない。
 だから。
 だから――― 
 
 何処か儚げに見えていたあの人を、いつか自分が護ってあげようと思っていた。
 優しい優しい微笑みに知らず混じっていた一抹の寂しさを、いつか自分が拭ってあげようと思っていた。
 大好きだったあの人の傍らに、いつでも自分が居ようと思っていた。
 それで、そんなことで、あの人が本当に笑ってくれるなら、どんな暗い道だって迎えに行けると思っていた。
 でも、あの人は、人の世の理【ことわり】に反することなど望まないと分かっていたから。
 それでも、我を通して迎えに行ったなら、全てを赦す優しい笑みで、理に反した代償を全て己で背負ってしまうと解っていたから。
 だから。
 
 貴方にもう一度会えて嬉しかった。
 貴方ともう一度別れて悲しかった。
 貴方のもう二度と血の通わぬ冷たい手が、それでも、何よりも、愛しかった。
 
「会えて、嬉しかったよ。紫苑さん」
 彼は父の従兄弟で、前代の跡継ぎ候補の祝【はふり】だった。
 いつも優しく微笑んでいて、会うたび頭を優しく撫でてくれた。
 血が近くなり過ぎた為の明け色の髪は柔らかく、少しだけ猫っ毛だった。
 生まれつき子供を生せない体だったと、彼が逝ってから知った。
 彼は、憧れの人だった。
 
 
 紫苑さんは、初恋、だった―――
 
 
「紫苑、さんっ………」
 俯いた白い頬に、滴が一筋、伝い落ちた。
 
 
END.

 

 

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