「送り酒」
 
 和泉は表情が乏しい面に、珍しく大きな文字で「困惑」と書いて目の前の光景を眺めていた。
 
 ―――わいわい、がやがや。
 
 とても今居る場所にそぐわない賑やかさは不謹慎な程だ。
 ぐるりと周囲を見回す。
 何度目になるだろう同じ行為に、やはり両目は変わることのない同じ風景を映す。否、寧ろより賑やかさを増しているような?
 大多数の人の目には映らないモノを映す目をしばしば疑ったものだが、今は別の意味で疑いたかった。
(だって、此処……)
 生まれて初めて遭遇した類の困惑に絶賛混乱中の和泉を置き去りに、賑やかさの中心に堂々と立ち、慣れた様子で陣頭指揮を執っていた『少女』が右手に持った杯【さかずき】を皓々と輝く月に向かって高々と掲げた。
「ぃよーしっ! 皆っ、酒と肴は行き渡ったな!? ねぇ奴は自己申告しろよぉ〜? んじゃ、
 今年もお帰りなさい! そして、行ってらっしゃい! 良い旅路をっ!!」
 『少女』の音頭に合わせて其処彼処から賑やかな乾杯が響き渡り、陶器の杯が触れ合う澄んだ音色が場違いな空間を優しく満たした。
 どの顔も柔らかく穏やかで、隣り同士で他愛無い世間話を交す者、知り合い同士で賑やかに騒ぐ者、番い同士で静かに寄り添い合う者、と皆がこの時間を楽しんでいるのが伝わってくる。
 優しい空気、穏やかな空間。
 昔から少年の憧憬であった温かな場所をくれた『少女』は、至極当たり前に誰にでもその温かさを分け与える。
 何度も、何度も。
 何人も、何人も。
 それでも尽きぬ温かさは、分けるたびに増え、さらに分けた先でも増え続け、『少女』や『少女』の大切な者達の周囲を温かなもので埋め尽くしていく。
 そんな『少女』の在り方も、『少女』自身もとても大切に思っている少年は、場の空気にほんわかした気分になりながら、もう一度だけ周囲を見回した。
 何かの間違いかも知れない。暗くて見間違えたのかも。
 しかし、無情にも少年の瞳に映る景色は変わらず、少年はとうとう何かを諦めたように遠い目をすると、視線を斜めに逸らして乾いた笑いを浮かべた。
「諦めろ。深く考えたら負けだぞ?」
「あの子の傍に居るならば、このくらいの非常識は常識の内に入ろうて」
「あの子は大らかな子ですから」
「ほっほっほっ、まだまだじゃのぅ」
 『少女』に頼まれ慣れぬ少年の傍に居た『人外』達が、口々に慰める意思皆無な台詞で少年に追い打ちをかける。
 しかし、だがしかし、生まれた時から『世間一般の普通』とは相容れなかった少年も、長年培った『世間一般の常識』とサヨナラするには至っていなかった。
「和泉………慣れろ」
 ずっと昔から少年の傍に居てくれた『家族』が、慰めるようにふさふさの尻尾で少年の背を軽く叩く。何だかもう、その触り心地の良い尻尾を抱きかかえて朝まで眠ってしまいたい衝動に駆られながら、少年は『少女』と『少女』の周囲を眺めた。
「なぁ、黒銀。俺の目がおかしいのかなぁ……」
「大丈夫だ。和泉の目はどこもおかしくない」
「そっか……」
 ああ、いっそ自分の目がイカレテいた方が良かったのに。
 少年はますます遠い目をしながら、それでも変わらぬ憧憬の眼差しで『少女』を眺めた。
 温かい『少女』。
 優しい『少女』。
 叱る強さも持つ『少女』。
 ずっと和泉が欲しかったものを当たり前にくれた『少女』は、今も目の前で無造作にその温かい手を差し伸べ続けている。
 だから、もういい。どれだけその周囲の状況が異常でも、『少女』が何ら損なわれるわけではないのだから、もう何でもいい。
 夜明けを迎えた『少女』の『姿』を見ても、「もう、何だっていいや」と思ったのだ。この程度、何だというのだ。
 何せ此処は、祀る竜神の妹が先代神主だったような神社だ。異世界から夫を連れ帰った女性が当代神主を務めてるような神社だ。月夜に性別が変わる次期神主が住まう神社だ。
「大量の人玉が飛び交う夜の墓場で、『帰って来てた』霊を相手に酒盛りをしてるくらい普通だよな」 
 和泉が何かいろいろ諦めた表情【かお】で、だが無意識の愛おしさが溢れた苦笑を『少女』に向けた。
 
 
 お帰りなさい。
 そして、行ってらっしゃい。
 どうか良い旅路をっ!!
 
 
「送り酒」END.

 

 

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