「月を愛でる魚」
 
「楽しければ笑い 悲しければ泣けば良いでしょう」
 冴え冴えとした月の光が白々と照らす白砂の上をゆっくりと歩きながら彼女は小さく口ずさんでいる。
 最近の彼女のお気に入りである美しくも物悲しい曲は、彼女の歩む場所を冷たい月光の降り注ぐ蒼い海原と錯覚させる。
 青年は、思わず手を伸ばしてその白い着物の袖に包まれている腕を掴み止めてしまいそうな衝動を、何でもない顔で固く手を握ることで誤魔化した。
「私はもうひとではない 歌うことしか出来ぬ」
 青々と降り注ぐ月の光の中、真白い袖をひらひらと揺らして歩く彼女は波間をたゆたう白い泡のようで、目を離した瞬間に溶け消えてしまいそうな恐怖を抱かせた。
「ルーリラッルーリリッルッラルー ルリルーリラッラールリーララー」
 しじまに響くさざ波の音韻。
 寄せては返す音色の波。
 その波の狭間に消えていきそうな大切なひと―――
「っ、和泉? 何?」
「えっ? あっ……」
 きょとんとした表情【かお】で振り向かれ、初めて自分が彼女の腕を掴んでいたことに気がついた。柔らかさよりも細さが際立つ感触は、彼女の発展途上の幼さを布越しに伝え、返って彼女への感情を青年の中で浮き彫りにするようだった。
「ごめんっ……」
 慌てて離し、やり場のない手を咄嗟に背中に隠してしまう。
 自分でもあまりに不審な態度に内心わたわたしながらこっそり彼女を伺えば、少女は特に気にした風もなく、眼を眇めて温度の無い光を放つ丸い天球を見上げていた。
「なあ、和泉。月が綺麗だなぁ……」
 ………深く考えてはいけない。深読みしたら負けだ。
 結構必死に自分に言い聞かせる。だってその問いには、きっと絶対全然全く何の意味もない。賭けても良い。
「ああ、そうだな。良い月見日和だな」
「うんうん、団子が食べたくなるよなぁ〜〜」
 そう、この仕事ででもなければ本なんて絶対に開かないこいつが、純文学なんて読むわけがない。
(こいつに限って知ってるわけないだろ。夏目漱石の口説き文句なんて)
 「月がとっても青いから〜〜♪」と機嫌良く口ずさむ彼女を見ながら、青年はこっそり深々と溜息を吐いた。
 青年の心の中の呟きは当然彼女の預かり知るところではなく、今度は明るい歌を無邪気に歌い出した彼女は、まるで月光の海を思うままに泳ぐ魚。白と赤の鰭をひらめかせ、綺麗な魚は綺麗な歌を月の海で歌い続ける。
 青年は気付いていない。
 中学生でも国語便覧くらい授業で使うし、彼女のクラスの国語課教師はなかなかにロマンチストで。だから、実は知っていて言ったのかどうかは青年の預かり知らぬこと。預かり知りさえすれば、実は事態は進んでいたのかも知れない。
 
 さて、月夜の魚は最初から居なかったのか、それとも居ないと思い込んで逃してしまったのか。
 月の海の魚心は、彼女のみが知る秘め事。山奥の泉の青年には、まだ分からない。
 
 そんな夜の出来事。
 
 
「月を愛でる魚」END.

 

 

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