「高槻神社のある町 -その周辺の人々-」

1.ロマンスの神様
 
「寒ぃぃぃ!!! だぁぁぁーーー、っんでこんなに寒ぃんだぁぁぁ!!」
「喚くなっ! よけー寒ぃ!!」
 これでもかとぐるぐる巻きにしたマフラーに口元を埋めた黒髪の少年が、堪らず叫んだ相方をきっちり手袋を嵌めた手で叩けば、叫んだ少年は不服そうにぶぅと唇を尖らせた。
「んだよっ! サっちゃんの変温動物っ!!」
「サっちゃん言うな、ユウちゃん呼ぶぞっ」
 寝癖と天然パーマであっちこっちに奔放に跳ねた天然茶髪を揺らしながら頭を抱えた少年がキャンキャン叫べば、癖とは無縁の黒髪をさらりと揺らした少年は今度は軽く太腿に膝を入れた。
「おら、さっさと行くぞ。寒ぃんだよ」
「言われんでも、こっちも寒ぃわっ」
 年の頃は高校生くらいだろうか。さっきから寒いを連発している少年達は、それぞれ一本のシャベルを担ぎ、やたらと元気に寒いを連呼しながら足取り軽くうんざりする長さの石段をひょいひょい登って行っている。その頬は寒風に赤く染まり、吐く息は向こうも透かせぬほど真っ白い。それも道理。漸く最初の一射しが町に届こうかという時分に外を出歩けばそれは寒さも一入【ひとしお】だろう。
「さ〜む〜いぃぃぃ〜〜」
「だぁら、言うなっての」
 元気は元気だが、二言目には寒いが飛び出す相方を再度軽く叩き、石段の頂上を見上げ黒髪の少年は真っ白に弾む息を吐き出した。
 実に賑やかに騒がしく、神社の長い長い石段を首を竦めて上って行く少年達。はてさて、何故に彼らがこんな時分にこんな所にいるかと言えば、それば数日前に遡る。
 
 
「サっちゃんサっちゃんっ! コレ見て、コレっ!!」
「だぁら、サっちゃん呼ぶなっ!!」
 無駄に元気に賑やかに、いつもの如く叫びながら自室に飛び込んできた幼い頃からの相方に、これまたいつもの如く手近なクッションを投げつける。避けきれずに顔面で受け止めた少年を胡乱な眼差しで見やりつつ、しょうがないとばかりにパラパラと捲っていた漫画雑誌を枕元に放り出し、黒髪の少年は寝そべっていたベッドから面倒くさそうに起き上がった。
「んで? 何だよ、ユイ」
 寝癖と無縁の黒髪に覆われた後ろ頭をバリバリ掻きつつ身を起こした相方に、顔面キャッチした顔を両手で押さえつつしゃがみ込んで呻いていた茶髪の少年は、ぴょこんと起き上がり誇らしげに丸めて持っていた荷物を両手で掲げた。
「ジャッジャーーン。なぁなぁ、コレって地図だよなっ!?」
 ぴらぴらと振られるそれは正しく地図。それも地元民ならではの大雑把さと通称で書かれた手書きの地図だ。
「大掃除してて偶然見つけたんだ。なんか面白そうじゃね?」
 玩具を見つけた子犬のように瞳をキラキラと輝かせる様に、見えない尻尾が千切れそうなほど振られている幻影が見える気がする。
「きっと昔貯めてたヘソクリがっ!!」
「アホか」
 とは言え、まだまだ稚気の残る年頃としては、この如何にも意味在り気な手書きの地図が面白そうと言う意見には大いに賛同できる。
「これ、高槻神社か?」
「な、サチ! 明日の朝早くに行ってみよーぜ!!」
 地図を受け取り見覚えのある経路を指で辿っていた黒髪の少年に茶髪の少年がニッと笑いかけ、黒髪の少年もまたニヤリと笑い返す。
 箸が転がっても笑えるお年頃。こんな面白そうなこと見逃せるわけもなかった。
 
 
「とぉーちゃーくっ!!」
「ほっんと、無駄に元気な」
 石段の頂上で両手を広げて満面の笑みを浮かべるユイに呆れた視線を向けながら、サチは地図と周囲を見比べ社の横手に在るちょっとした森に足を向けた。
「んぁ? そっちなの?」
「んーー、多分その森の入口付近、か?」
 当たり前ながら参拝客を始め人っ子一人居ない境内を横切って森に入ったサチは、きょろきょろと視線の高さを見回し、一本の木の幹をぽんっと叩いた。
「これだな」
 視線の高さよりも少しだけ上に横一文字の古い傷跡。地図に書いてある目印と一致する。
「んじゃぁ、掘りますかぁ」
 ユイが担いできたシャベルの先を木の根を傷つけないように慎重に地面に突き刺す横で、サチもまたシャベルを振り降ろした。
 
 ―――ざっか、ざっか。
 ―――ざっか、ざっか。
 ―――カツン。
 
「「あっ」」
 広く浅く木の根元を掘り進めるうちにシャベルの先が何か硬いものに突き当たった。思わず顔を見合わせた二人は、その場にしゃがみ込むとシャベルの刃先を持ってさらに慎重にそぉっと土を掻き分けた。
「缶?」
「菓子箱か?」
 土で汚れた四角い箱はたぶん煎餅等が入っていた缶だろう。そっけない銀色の缶の蓋は確りとテープで塞がれていて、中身の保存状態は悪くなさそうだ。
「よ、よっし、開けるぞぉ」
「おうっ」
 ユイが何処と無く緊張した手つきでテープを剥がし、そっと蓋に両手を添え持ち上げた。
 
 ―――カサリ。
 
「え!?」
「コレって……」
 蓋を開けた途端、二人の視界を埋めたのは年を経てなお色褪せぬ柔らかな色彩。淡い桃色や淡い若葉色、薄い青色などの柔らかな色合いの可愛らしい封筒の中に、そっけない茶封筒や白封筒が半々の割合で缶の縁いっぱいまで溢れている。
「コレって、もしかしなくともラブレター?」
「古き良き時代で言うところの恋文、だな」
 封筒の宛名は二人の人間で占められ、それぞれの手跡は常にたった一人の名を綴っていて―――
「あーあ、せっかく早起きして掘り出したのが爺さん達のラブレターとはねぇ」
「どんな顔して埋めたんだか」
 仲睦まじいオシドリ夫婦と近所で評判の祖父母の若き日の思い出は、今もなお鮮やかに冬の朝さえ春色に染め上げる。そんな優しい『宝物』を眺め、ユイは心底楽しそうにニマっと笑った。
「なぁ、コレさ。今度の爺さん達の金婚記念日に枕元に置いとかねぇ? 温泉旅行の券と一緒にさ」
「ふーん、いいんじゃね? 偶にはイイコト言うじゃん」
 ニマニマと笑うユイにサチもニヤリと笑い返し、思い出を一つも取り零さないよう蓋を閉めると丁寧に缶の泥を払い大切に抱え上げた。
「偶には、はヨケーだっつの。んじゃ、折半な」
「はぁ!? てめっ、手出し幾らになんだよ、それっ!!」
「やっぱムリか?」
「っち、しゃーねぇなぁ、トキ姉やカズ兄、あとユズ達も巻き込もうぜ」
「だな。へへ、どんな顔すんだろうな」
「さぁてなぁ。あ、もうこんな時間かよ。んじゃ、オレは彼女とイチャついてくるから」
 一言多い物言いにむぅと口を尖らせたユイとひとしきり言い合って、サチは明るさを増していく東の空を見やり、今日9時から待ち合わせている恋人を想って擽ったそうに破顔した。
「んなにぃ!! おっまえ、いつの間にっ!!?」
「こないだ合コンがあったんだよ。残念だったな、補習ヤロー」
「ちっくしょー!!! フラれちまえーー!!!」
「わーはっはっはっ!!! 喚け喚け」
「ドチクショーーー!!!」
 キャンキャン噛み付いてくるユイにシャベルを二本とも押し付け、両腕に確り『宝物』を抱え込むと、サチは眩しそうに朝日を見つめて鮮やかに笑った。
 
 
 
2.電気仕掛けの預言者
 
「時枝ぇ。飲んでるぅ?」
「んー、飲んでる飲んでる」
 就職後の第一回同窓会。すっかりイイ感じに出来上がっている酔っ払い達に適当に絡まれながら、一人素面の下戸は深く深く溜息を吐き出しウーロン茶のグラスを揺らした。
 時枝は酒が飲めない。お猪口一杯で吐く下戸である。だから、コンパに参加したことなんて一回も無いし、卒研班と飲みに行ったことも碌に無い。こういった席では酔っ払いの介抱を一手に引き受けることになって、できるなら参加したくなく、片っ端からかわしてきたのだ。だが、今回は高校時代の同窓会で恩師も参加するとあっては、さしもの時枝も蹴るわけには行かなかったとそういうわけである。
「マジで帰りたい……」
 酒の在るところ煙草の煙在り。白く霞む天井を睨み、時枝は鬱々とグラスに懐く。自他共に認める嫌煙家の時枝にとって煙は仇敵である。咽が痛くなるは、乗り物に酔いやすくなるは、人混みにも酔いやすくなり本当に最悪である。
「もう、ほんっと帰りたい」
 家に帰って自室でごろごろしたい。もふもふのクッションに懐きたい。ぬくぬくの毛布に癒されたい。
 いろいろ限界に達しようとしていた時枝の目の前に、唐突ににゅっと何やら珍妙な物が指し出された。
「時枝、時枝! コレやってみて! ね!?」
 友人が差し出す薄っぺらく平べったいソレを暫し観察し、時枝は先にも増して深々と溜息を吐き出した。
「コレ、ナニ?」
「相性占いゲームでっす♪」
 呆れ過ぎて片言喋りになっている時枝を何処吹く風と、友人は至極楽しそうにその薄っぺらいゲーム機をぴらぴらと振って見せた。
「まぁまぁ、コレ素直にやったら解放してあげるから、ね?」
 赤い頬でへらへら笑う友人をジト目で見つめ、まあ、でも、これで漸く帰れるならと時枝はやる気無くボタンの一方に指を当てた。
「んんーー、と」
 時枝の素直な態度に満足そうに笑った友人は、きょろきょろと周囲を見回し、ちょうど遅れて到着したスーツ姿の青年をびしっと指差し、パタパタと時枝の隣を叩いた。
「篠原君、篠原君。こっちこっち、時枝の隣に来るっ」
 酔っ払いの傍若無人なご指名に、此方も素面の青年は周囲から押し出されるようにあれよあれよと時枝の隣に座らせられ、期待にキラキラ輝く複数の視線の中、多少たじろぎながらもう一方のボタンに指を当てた。
 
 ―――チャリラリラン♪
 
「「「「「おおーーーー!!!!!」」」」」
 軽快な音が鳴り響き、観衆が盛大にどよめき歓声を上げる。周囲の他の客まで巻き込んでやんややんやの大喝采。
「コレはイイ感じに出来上がってる酔っ払い共への話題提供に貢献したいのか?」
「さ、さあ?」
 呆気に取られる篠原青年の隣で、仏頂面を晒しながら時枝はちっぽけな掌サイズのゲーム機を半眼で見下ろし、今日一番盛大な溜息を吐き出した。
 
 
 
3.マイ セレナーデ
 
「離してくださいっ」
「ええーー、んな言われ方傷つくなぁ。近道、案内したげるって言ってるだけじゃん」
「そうそう。んな怯えないでさぁ」
「離してっ……」
 人で賑わう冬の街中。待ち合わせ場所に赴く為に人混みを突っ切って歩いていた和臣の耳に、微妙にヤバそうな会話が風に乗って運ばれて来た。不穏な雰囲気に眉間に皺を寄せ、声の聞こえて来たビルとビルの隙間に足早に駆け寄れば、薄暗いビルの陰に無理やり連れ込まれた小柄な少女が、如何にも脱色したと言わんばかりの不自然な茶髪をした二人組の男達に、逃れられないよう腕を掴まれた態勢でかなり強引にナンパされていた。
「離してやれよ。嫌がってるだろ」 
「あぁ!? テメェにゃ関係」
 
 ―――ゴッ。
 
 何処からとも無くしゃしゃり出て来た青年相手に剣呑な声を上げ睨みつけてきた男達は、しかし、和臣が無言で打ち付けた拳とコンクリート壁の間にパラパラと小さな破片が落ちる様を見て、気圧され言葉を途切れさせる。和臣がすいっと目を眇めさらに一歩踏み出せば、慌てて少女の腕を放し、まともに聞く気も起きない無個性な捨て台詞と共に後ろも見ずに走り去っていった。
「大丈夫か?」
 余程怖かったのか雨に濡れた小兎の様にふるふると震える少女に一歩距離を空けて立ち止まった和臣は、害意が無いことを示すように頭一つ半低い少女と視線を合わせて屈み込むんだ。
「あっ…わ、わた、しっ」
 和臣と視線が合った途端、緊張が解けたのか少女はぽろぽろと涙を零してしゃくり上げ始めた。無理も無いかとは思うが、少女の泣き声に気づいた道行く人達の視線が背中に突き刺さって正直痛い。和臣は中途半端に屈み込んだまま、これまた中途半端に片手を少女の頭に触れるか触れないかの位置で止めた姿で、困ったように眉根を寄せた。
「えっと、さ。とりあえず泣き止んでくれねぇ? オレが泣かしたみたいな視線が痛い」
 和臣の心底困った声音に大きく瞬いた少女は、和臣の背に突き刺さる好奇心や興味本位、軽蔑の眼差しに気づき、慌てて両手でごしごしと両目を擦った。
「ご、ごめんなさいっ」
「んな擦ると腫れるぞ」
 小さな子供のようにごしごしと擦り続ける少女に、思わずその小さな手に触れて止めると、びくりと震えて触れられた手を胸元に抱え込んだ。
「あっ、悪い」
「あっ、い、いえっ。あ、あのっ、そのっ、嫌だったとかじゃくて、その、吃驚、して……」
 気遣いが足りなかったと急いで手を引っ込めた和臣に、慌てて顔を上げた少女は勢い込んで言葉を重ねていくうちにだんだん尻すぼみになり真っ赤になって俯いてしまった。
(どうしたもんかなぁ)
 真っ赤になった少女を前に、いい加減中途半端な体勢で痛くなってきた腰を伸ばした和臣は、薄暗い路地から明るい表通りに一歩出て、俯いたままの少女を振り返った。
「取りあえず、何処か行くとこあるなら案内いる?」
 少々ぶっきらぼうな口調には一切他意は無い。純粋な親切心は少女にも誤解無く伝わったのだろう、少女は和臣に続いて明るい陽射しの元に歩み出るとゆっくり息を吐き出した。
「で? どうすんの?」
「あ……お言葉に、甘えさせていただきます……」
 俯き加減に歩く少女の足取りに合わせて歩き始めた和臣は、少女の脚がまだ少し震えていることに気が付き、無意識に弟妹に対するように手を差し出した。
「手、繋ぐ?」
 吃驚したように顔を上げた少女は、差し出された手と和臣を暫し見比べ、ふんわり微笑んで自分の手よりも一回り以上大きな温かい掌に白く細い手を重ねた。少女が歩き易いように誘導しつつ普段よりずっとゆっくり歩く和臣は、相変わらず俯いたままの少女の頬が柔らかな桜色に染まっていたことには終ぞ気づかなかった。
「遅かったじゃん。和臣」
 偶然と言おうか、お互いに定番だったと言おうか、待ち合わせに良く使われる小奇麗な広場の大きなクリスマスツリーの下で和臣の級友が大きく手を振って呼びかけ、次いで大きく目を見開いて和臣の隣を凝視した。
「はっ、なんっ、おまっ、ちょっ、和臣ぃぃぃ!!!?」
「ちょ、あれっ! えっ、なんっ、えっ、ええーーっっ!!?」
 和臣と手を繋いで歩く小柄な美少女の姿に裏返った声を上げて驚く友人に軽く手を上げて答え、和臣は周囲をぐるりと見回し、和臣の友人と同じく目をまん丸にして驚いている少女達の集団を認めると傍らの少女を振り返りそっと手を離した。
「じゃ、な」
「あっ、待ってくださいっ」
 そのまま友人達に向かって歩き出した和臣のダッフルコートの裾を少女の細い指が引き止める。反射的に振り返った和臣の顔を真っ直ぐ見上げ、少女はきゅっと唇を一度噛み締めると大きく深呼吸して一気に言葉を紡いだ。
「わ、私は、三波小夜といいますっ。あの、あなた、は?」
 迷子になった弟妹達を漸く見つけた時の様子にも似た必死で一生懸命な表情と仕草に、和臣は知らず柔らかく微笑み、路地裏で保護した小動物系少女の願うまま望む言葉を告げた。
「藤崎和臣」
 優しい旋律の名を持つ少女は、花開くように鮮やかに微笑んだ。
 
 
 
4.マジで恋する5秒前
 
「詐欺だ・・・・・・」
 思わず零れ落ちた言葉は、嘘偽りのない感情の欠片だった。
 
 今日も今日とて図書委員であるところの柚樹は、カウンターの内側でせっせせっせと書籍の修繕などというものをやっていたりした。寄贈図書なんてそもそも古い物だから、いろいろと有り余っている10代後半の若者に酷使されればやはり痛むのである。明智小五郎やホームズの全集を寄付してくれた太っ腹な書痴の皆々様に報いるためにも、せめて大切に長々と利用することが望ましいと柚樹は私論ながら常々思っている。故に、こうして今日もちまちませっせと修繕に励むのだ。千里の道も一歩から、である。
 閉室時間までせこせこ作業をやっていたら思うより熱中していたのだろう。柚樹は18時を告げるチャイムの音に顔を上げると、椅子に腰掛けたまま両腕を上げて思い切り伸びをした。
「んんぅ〜〜。もうこんな時間かぁ」
 限の良いところまで作業を進め、ぱたぱたと後を片付ける。続きは明日やればいい。
「さて、戸締り確認。戸締り確認」
 窓を閉め、脚立の位置を直し、どこぞの大馬鹿者に逆さまに仕舞われた本を正しく仕舞い、居残りがいないかもついでにチェックして―――
 で、見つけてしまったのだ。机に突っ伏して寝こける一人の男子生徒を。
「あや? しかも同じクラスの何某君」
 瓶底眼鏡を愛用している名前を度忘れするほど印象の薄い少年に、どう呼びかけたものか一瞬迷い、取り敢えず揺すってみようと肩に手をかけた時、何の弾みか眼鏡がカタリと机上に落ちた。
「っ」
 息を呑む。
 目が吸い寄せられ。
 視線が逸らせない。
 喉の奥が瞬間に干上がった。
「詐欺だ……」
 何処のお約束だ。在り得ないだろ。
 思わず零れ落ちた言葉は嘘偽りのない感情の欠片だった。いったい何処の三文小説のネタだ。だって、在り得ないだろう。
(どんだけ厚い硝子を透せばコレが隠れるんだ?)
 すぅすぅと深い寝息をたてて微睡みにたゆたう綺麗な綺麗な陶磁人形【ビスクドール】の少年。
 その姿から視線が逸らせない。惹き寄せられ、引き寄せられる。これで、閉じられた双眸が開いたらどうなってしまうのだろう。
(私の、心臓は―――)
 ぴくりと瞼が震える。澄んだ双眸が現れ、傍らに立ち尽くす柚樹の姿を捉え不思議そうに瞬いた。
「え? あ、れ?」
 緩慢な動きでうつ伏せていた体を起こし、少年はきょときょとと周囲を見回した。暗くなっていく窓の外を視界に納め、周囲の気配の無さを肌に感じ、カウンターの頭上の壁時計を見上げ、眼鏡を掛けてぱちくりと瞬きした。
「あ・・・閉室、時間?」
「うん、そう」
 唇から零れた独り言に思わず肯定を返した柚樹を見上げ、彼はばつが悪そうに前髪をくしゃりと掻き上げ苦笑した。
「えっ、と。ごめん。迷惑かけて」
 足元の鞄を持ち上げ、広げていた本を仕舞おうとしてふと手が止まる。そして、彼は心底困った顔でそろりそろりと柚樹を見上げた。
「あー、そのー、貸し出しってまだできる?」
 眉をきゅっと寄せた何とも情けない表情【かお】に柚樹は思わず破顔し、ひょいと彼の手から本を取り上げた。
「これだけでいいの?」
「あ、うん。ありがと」
 本をひらひらと振りながらカウンターの内側に収まった柚樹の姿に、彼はふわりと微笑み歩み寄った。
「ホントにありがと。柚樹さん」
「え?」
 彼の呼びかけに咄嗟に顔を上げた柚樹に彼は溶けるように微笑み、貸し出し手続きの済んだ本をカウンターから取り上げ、そのまま扉に手を掛け振り向いた。
「もう遅いし、良かったら送るけど、どうする?」
「え? え?」
 慌てる柚樹に彼はにこにこと笑い、いつの間にか手にした柚樹の荷物を持って廊下に出て行く。急いで戸締りをして先を歩く彼に追いつき隣に並ぶ柚樹に、彼は振り返りにこりと笑った。
「いや、だから、何処のお約束よ、三文小説よぉ〜〜〜」
「ん、何? 柚樹さん」
「ナンデモナイデス」
 思わず現実に声に出ていた心の声に反応して振り向く彼に片言言葉で首振り人形になりつつ、柚樹はくらくらする頭で考えた。
(ああ、どうしよう)
 いったい今日一日で何度恋に落ちれば良いのだろう。
 笑顔の優しい、この綺麗なひとに。
 
 
 
5.この鐘を鳴らすのは貴女
 
「初めまして、三草美華です」
 一瞬、周囲の音が全て途切れた。
 大きくも小さくもない彼女の声だけが不思議なほどくっきりと自分の鼓膜を振るわせ、自然なままの黒髪をさらりと揺らす仕草に吸い寄せられるように目が惹き付けられた。
「うっわぁ。オレ、頭ん中で鐘が鳴る感覚なんて初体験……」
 従姉が女子高に通ってるという級友が計画した合コンに参加したサチは、そこで正に自分の理想そのものの少女と出会って思わず呟いた。髪をおしゃれ染めする女子高生の多い昨今、綺麗な烏の濡れ羽色した黒髪なんてかなり貴重である。おまけに癖の無いストレートロングヘア。初恋の人である近所の神社の巫子さんを彷彿とさせる大和撫子風美少女に見惚れるサチに、対面席に座った少女がことりと小首を傾げた。
「高山君?」
「うぁっ!?」
 惚けてぼうっとしていたサチは、此方を覗き込んできた黒目がちな双眸のあまりの近さに驚いて声を上げる。反射的に仰け反った身体に、腰掛けていた椅子がガタリと音を立てた。
「どした、高山ぁ?」
 この合コンの主催者である友人が脇からサチの顔を覗き込むと、彼女から見えない位置でニヤリと笑った。
「どうよ? お前の好みにぴったりだろぉ? 俺に感謝しろよ〜〜」
「グッジョブ!」
 小声でニマニマ笑う友人に、これまた彼女から見えない位置で親指を立てたサチも小声でニッと笑い返す。今時かなり古風な好みをしている自覚のあるサチにとって、ここまで好みにドンピシャの少女と出会えるなど予想外過ぎてそれこそ奇跡の確率だ。
「末永くヨロシク、三草さん」
「? 此方こそ?」
 きょんっと小首を傾げた少女に、サチはにっこりと笑いかけた。
 
 
 無意識に鼻歌を歌いつつ込み合う人波を泳ぎ渡るサチは、ダッフルコートのポケットに突っ込んだ小さな重みに触れ微かに笑む。視線の先で早くに待ち合わせ場所に来ていたらしい少女が、此方に気づいて手を振った。
「美幸くん」
 あの日出会った理想の少女は、あの日のサチの望みのまま、青空の下でサチににっこり微笑みかけた。
 
 
 
6.大好きな君に
 
「ううっ、クリスマスに追試なんてぇぇぇぇ」
 今朝、今日は彼女とデートだと言っていた従兄弟は今頃彼女とイチャついてる真っ最中だろう。なんて羨ましくも恨めしい。
「チクショー、フラれちまえぇぇ」
「ナニを不吉な真似しとるか」
 半泣きで教室の窓から遠い空の下の幸せ者に鬱々とした念を送っていたユイの後頭部をポコリと軽い音を立てて衝撃が走った。振り返れば、丸めたプリントの束を片手に持ったクラス委員長が呆れた表情で背後に立っている。
「追試になったのは由樹君の自業自得でしょうが。寧ろ、補習に付き合わされてる私の方が、盛大に由樹君を呪いたいよ」
 もう一発ポカリと頭を叩いて委員長はジト目でユイを睨む。その視線に居た堪れない表情で視線を逸らせたユイは、窓の外をチラつく白い欠片に目を留め満面に笑みを浮かべた。
「うっわぁーー! 委員長、委員長っ。外見て、外っ!!」
「へぇ、雪だぁ」
 寒さをものともせず開け放った窓から腕を差し出したユイの掌に制服に触れ解ける雪の一片に、委員長もまた感嘆の声を上げユイの隣から外に手を差し出す。委員長の笑みに我がことのようにますます笑みを深め、ユイはにぱっと花が綻ぶように笑った。
「なっ! すっごいよなぁ!!」
「うん……凄い。ホワイトクリスマスだぁ」
 柔らかそうな手のひらで白い六花を受け止める姿に、ユイは眩しそうに目を眇めた。視線に振り向いた委員長の外気に当てられ冷たくなった頬に片手を伸ばす。
「委員長、メリークリスマス」
 驚いて目を見開く少女の頬に、温もりを分け与えるように唇を寄せた。
 
 
 
7.僕らがその名で呼ぶ理由
 
「ミユキなんて女の子みたいだ……」
「ユキだって女の子の名前だよ。ユズキと付け間違えたんだぜ?」
 幼い少年達は一度は必ずからかわれる女の子のような名前に、ぶぅと頬を膨らし足元を蹴り上げた。どうして自分の名前は他の子たちのように男の子らしい名前ではないのか。それら彼らの共通の不満だ。
 そんなある日、からかわれるたび不満に思っていた少年の一人が、兄の部屋の漢和辞典を引っ張り出して来て満面の笑みで頭上に掲げて見せた。
「なぁなぁ! ミユキの漢字、『幸』ってサチって読むんだって。だから俺、サチって呼ぶなっ!」
 全開の笑顔の少年に、そう告げられた少年は暫く新しい呼び名を舌の上に転がし破顔した。
「サチ、かぁ……うん、いいな」
「だろぉ」
 胸を張る少年にサチは手を差し出し、漢和辞典を受け取ると笑いかけた。
「あ、じゃあ、ユキも決めよーよ。えっと…………『由』ってユイとも読むんだってさ。だったら俺、お前のことユイって呼ぶよ」
「ユイかぁ……なんかカッケー!」
 わくわくした表情で満面の笑みを浮かべたユイと目を見合わせ、お互いに指差しあいながらサチとユイはニッと笑いあう。
「サチ」
「ユイ」
「「うん。イイ感じ!」」
 これが、彼らがサチ、ユイと呼び合う理由。
 
 
 
ex.移り変わり行く、行く年来る年
 
「で? うちはいつから縁結びにも手を出したんだ?」
「さぁねぇ、地鎮、海鎮、魂鎮が主じゃなかったか」
「やっぱそうだよなぁ」
「ま、良いんじゃないのか? 幸せならそれが一番だろ」
「てゆーか、ヒトが年末進行に疾駆八苦してた間に同世代の親戚全員に恋人ができてるってどーよ」
「そーゆーこともあるんだろ」
「俺はまだ独り身なのに……」
 複雑な表情で長い長い石段を登ってくる知った顔の五組の男女を見下ろし、神社の屋根の上で白虎相手に愚痴っていた白狩衣を着た黒髪の少年は深々と溜息をついた。
 どうやら聖夜の奇跡は現在進行形のようである。
 

END.

 

 

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