「約束の日」
川にそっと船を流す。
茄子や胡瓜で馬や人形を見立て、そっとそっと船に乗せ、そっとそっと水面に浮かべる。 軽い軽い竹の船が滑るように川下に下って行くのを傍らで見ていた長年連れ添った妻は、船が見えなくなると静かに息を吐いた。衣擦れの音を立てて立ち上がった妻を川縁に屈んだ姿勢のまま見上げれば、彼女は瞳を細め静かに微笑む。柔らかな微笑みの透明さに胸がじくりと痛んだ。 「っ」 名を呼ぼうとして、しかし、妻は静かに首を振り、そっと人差し指で唇を押さえた。 名を呼ぶという行為は、最も易く、最も大きな呪なのだといつか何処かで聞いた覚えがある。真偽のほどは定かだったのだろう。彼女はいつもこうして名を呼ぶのを禁ずる。 「また、一年後のこの時期にお会いいたしましょう?」 幼い少女のような仕草で小首を傾げる癖に愛しさが湧く。彼女のこの癖が好きだった。そして何より――― 「だから、一年後もちゃんと『此処』に居てくれなくては嫌ですよ?」 柔らかく、柔らかく。 それは、まるで日溜りのように暖かく。 それは、例えるなら陽射しに溶ける淡雪のように。 そっと微笑む。 その表情【かお】が何より一番好きだった。 生涯ずっと見ていたかった。 「私はまだ『此処』に居なくては駄目かね?」 寂しさの混ざった苦笑を浮かべれば、彼女は瞳を揺らしてそれでも確り頷いた。 「はい。まだまだ『此処』に居て下さらなければ駄目です」 何よりも愛した笑顔できっぱりと言い切る妻に、そう言えば一度も勝てたことなんてなかったのを思い出す。だから、仕方がない。 「では、一年後も『此処』に居るとしよう。また、こうして会う為に」 「はい」 ふわりと、笑む。 この胸を満たす変わらぬ愛しさが誇らしい。 変わらぬ心が愛【かな】しい。 まだ『其処』には『ゆけぬ』故に、哀しい。 「あなたはまだ『此処』に居らして下さい。そんなに早く『此方』にいらしては駄目ですよ」 それでも、ゆっくりと薄れ消えゆく愛しい女が今年も変わらず願うから。 また一年、この命を繋ぐのだろう。 まだ逝けぬ身故に――― END.
|