「甘く、甘く、少しだけほろ苦く」
 
 ともすれば無機質な空気を纏う鉄筋のコンクリート建築に、今日はまた随分と華やかな嗅ぎ慣れぬ匂いが焚ち込める。
 2月14日。
 今日は、乙女心と商人根性が見事に合致した、忌避交々な『勝負』の日。
 歳若き人々も、疾うに早過ぎ去った人々も、何だかんだと振り回され一喜一憂する『合戦』の日。
 日本に住まう人々は、今日のこの日を男女の甘い一大イベント“St.Valentine's Day”と呼ぶ。
 
 
 
「うーん、チョコの甘い匂いがするっ」
「おれ何個貰えるかなぁ」
「「なぁ、夏目っ」」
 そわそわそわそわ。
 窓際の席に集まって如何にもどきどきわくわくした少年達が、一人我関せずの態度で次の講義の準備をしていた少年をぐりんと振り向く。それにちょっとギョッとした少年は、少しだけ引き攣った笑顔で友人達を見上げた。
「え……と、今日って何かあったか?」
「ちょっ!! 聞きました!? 奥さんっ!!?」
「マジでかっ、夏目!? マジなのかっ!!!?」
「え? え? 何???」
 本気で分っていない夏目に友人達は深い深い深〜〜い溜息を吐き出すと、彼の前横の座席の椅子を引きどっかりと腰を下ろした。
「夏目、今日は何月何日だ?」
「は? 2月14日だろ?」
「そうだ。その通りだ。っで、今日は何の日だ?」
「何って、突発臨時補習の日か?」
「違うっ! 違うぞ、夏目っ!! そうじゃないっ!!」
「うおぉぉぉ!!! 今日を知らない高校生男子がいたなんてっ!!」
 頭を抱えて苦悩する友人達を困った顔で見つつ、はて何か特別な日だったかと暫し思案した夏目は、昨日の養母との遣り取りを思い出しぽむっと手のひらに拳を打ちつけた。
「ああ、もしかしてバレンタイン?」
「ニブイっ! ニブすぎるぞ、夏目ぇ!!」
「どーしてこんなどきわくイベントをうっかり忘れ出来るんだぁぁ!!!」
「いや、んなことで泣かれても……」
 昨日、菓子作りの本を片手に楽しそうにケーキを焼いていた塔子が、今日のおやつはチョコケーキだから楽しみにしていてね、と笑っていたのを思い出す。どうしてだろうと疑問に思った夏目の目に、包装紙に賑々しく書かれたバレンタイン・デーの文字が飛び込んできて事の真相を知ったのだ。
 彼女の温かな心にほんわか和んでいた夏目の机にバンッと両手をつき、友人達は口々に涙目で夏目にとうとうと訴えた。
「夏目、健全な高校生男子が今日を忘れちゃ駄目だろっ!?」
「突然の臨時補習にブーイングを垂れかけた男子が、『家に居るよりもチョコゲット率が上がるかもっ!!』ってブーイングを引っ込めたあの瞬間にお前も居ただろうが、夏目っ!!」
「だから、んなことで泣くなよ……」
 切々と訴える友人達に引きつつ、妙に校舎内がざわついた感じがするのはその為かと夏目は内心頷いた。元々、学校のような強い感情が焼きつき易い場所は、夏目のような人間に影響を与えてしまうモノを呼び易い。だから、朝来た時から常に表に出ないよう警戒していたのだが、ある意味それ故に騒がしさの理由などすっぱり脳内から抜け落ちていたのだ。
「くっ! 一番貰いそうなツラしといてこの無関心ぶりっ!!」
「モテナイ男の敵めっ!!」
 学ランの黒い袖に顔を埋めて泣く友人達に呆れた視線を向けつつも、かなり引き攣った笑みを何とか浮かべ、夏目は宥めるようにその二つの頭をぽふぽふと叩いた。
「おれなんて塔子さんからの一個くらいしか貰えないよ」
「そぉかぁ〜〜?」
「夏目、美少年だしなぁ」
 そう疑わしげにぼやく友人達に苦笑しつつ、夏目は「ないない」と手を振った。夏目は近付き難いらしく、特定の友人くらいしか親しげに寄っては来ない。それは、人とは違うモノを認識してしまう夏目があるいは無意識に、あるいは意識して他人との間に壁を作っている所為でもあるだろう。その状態を寂しいと感じる心もとうの昔に麻痺してしまっている。
(そう、今はただ……)
 今はただ、こんな自分でも受け容れてくれる数少ない大切な人達をこの手で守り切れれば良い。
「そんなことより、二人は貰う当てでもあるのか?」
「それを聞くか!? 夏目!!」
「チクショーー!! ねぇよっ!! んなもんちっともねぇよっ!!」
「え、あ、ご、ごめん……」
 さらに盛大に嘆きだしたお年頃な友人達を、夏目は必死に宥めるはめになった。
 
 
 
「じゃーな、夏目」
「またなぁ」
 いつもの路地で友人達と別れた夏目は、春の気配を纏った風に目を細めつつ、両脇を山茶花が彩る道をのんびり春の香を楽しみながら歩いていた。微かに鼻腔を擽る甘く清雅な香りは白梅だろうか? 姿見せずして気配を伝える五枚の花弁に彩られた茶色の枝枝は、冬枯れた木に雪が積もったような姿ながら、確かに春を告げる風景で目に優しく美しい。
「春ももうすぐだなぁ」
 高い空を仰ぎ、梅の香を胸いっぱい吸い込んで深呼吸する。清清しい息吹が体を満たし洗い清める感覚に心地良さ気に目を細めた夏目の鼻腔を、不意に甘く清らかな香りよりもさらに甘く溶け出すような匂いが掠めた。
「夏目くんっ」
「タキ」
 聞き慣れた友人の声に振り向けば、少し息を切らした少女が、いつもの通学鞄とは別に小さな紙の手提げ袋を提げて立っていた。
「タキ、どうしたんだ? 何かあったのか?」
 タキに近付き訊ねる夏目に、タキはズイっと紙袋を差し出すと真っ直ぐに夏目の目を見つめた。
「昨日作ったの。夏目くん、貰ってくれる?」
 視線を逸らせないタキの眼差しに夏目は目を見張り、次いでふわりと微笑んだ。
「ありがとう………」
 柔らかく微笑む夏目に、タキもにこりと微笑む。隣り合ってゆっくりと道を歩き出す二人の周囲を、薄紅の山茶花の花弁が春の風と共にひらひらと舞い踊る。
 触れそうで触れない指先に、ほんの少しの寒さと温かさを伝えて―――

 

 

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