「神鳴」
 
 切欠は些細なことだった。
 
 いつも利用する通学途中の本屋に欲しい参考書が無く、授業が午前中で終わる土曜日に珍しく遠出をしたこと。
 出先で五月晴れの青天が急に掻き曇り、雷を伴う土砂降りになったこと。
 雨宿りの為、すぐ傍に見えた石造りの鳥居に駆け込んだこと。
 
 それは、数々の偶然が折り重なった邂逅。
 否、それもまた必然だったのだろうか。
 それを知る者は無く。
 それを知る術もまた無いけれど。
 ただ言えることは、それらの全てが重なった結果、少年は常ならぬ空間に誘【いざな】われ誘い込まれたのだ。
 
 
 
 
 
 ―――ゴロゴロッ……
 ―――カッ! 
 ―――ドドォォーーーンン!!!!
 
「う、わっ」
 突然の雷雨に、リクオは思わず首を竦めた。
「やばっ。どうしよう。傘なんて持ってないし」
 生憎と傘の持ち合わせは無く、雨宿り出来る場所を求めて周囲を見回した視界に、古びた石造りの鳥居が掠めた。鳥居があるなら、社も在るかもしれない。
(土砂降りの中を駅まで走るよりも、社の軒先で雨宿りさせて貰おう)
 リクオは折角買った参考書が濡れないよう胸元に確り抱え込み、前屈み気味に歩道から少し外れた奥まった山の麓に在る鳥居に駆け込んだ。
 
 ―――ぐにゃ……ん。
 
 鳥居の中に駆け込んだ瞬間、全身を違和感が通り抜けた。
 まるで、見えない水面を通り抜けたような―――
「っ!!」
 咄嗟に振り返り、目を見開く。反射的に向き直れば、其処にも同じ光景が広がっていた。
 
 前に後ろに。
 何処までも何処までも続く赤い鳥居の並び。
 
 上に下に。
 何処までも何処までも続く石段の参道。
 
 右に左に。
 何処までも何処までも続く深闇を思わせる漆黒の空間。
 
「なっ……」
 深き闇の中に浮かぶ石造りの階段には一段一段赤い鳥居が立ち、それが途切れることなく前にも後ろにも視界の向こうまで並び続いている。
「な、に……?」
 驚くリクオの耳に、何処からとも無く童歌【わらべうた】が響いて来た。
 時に重なり、時に追いかけ、時に共鳴する幾重もの歌声の連鎖。
 男とも女とも判らぬ幼い歌声は十重二十重に重なり合い、無限の空間に韻々と降り注ぎ、響き渡り、器を満たす雨水の如くゆっくり確実に少しずつ不可思議な空間を満たしていった。
 
   通りゃんせ 通りゃんせ
 
                             ねぇねぇ、この子誰かなぁ
 
   此処は何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
      通りゃんせ 通りゃんせ
 
                        誰かなぁ   
 
   用の無い者通させぬ ご用の無い者通させぬ
 
                               この子混ざってるね
 
      此処は何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
        通りゃんせ 通りゃんせ
 
                     混ざってるね
 
      用の無い者通させぬ ご用の無い者通させぬ
 
                                  この子合いの子だね
 
   この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります どうぞ通して下しゃんせ
        此処は何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
 
                          合いの子だね
 
            通りゃんせ 通りゃんせ
   行きはよいよい 帰りは怖い
 
                             この子狭間の子だね
 
        用の無い者通させぬ ご用の無い者通させぬ
            此処は何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
 
                       狭間の子だね
 
   怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ
      この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります どうぞ通して下しゃんせ
 
                  じゃぁ通してもいいのかなぁ                                                     
 
            用の無い者通させぬ ご用の無い者通させぬ
      行きはよいよい 帰りは怖い
        この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります どうぞ通して下しゃんせ
 
                            いいかのなぁ                         
 
               通りゃんせ 通りゃんせ
            この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります どうぞ通して下しゃんせ
 
               この子どうしよう
 
               此処は何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
        行きはよいよい 帰りは怖い
               用の無い者通させぬ ご用の無い者通させぬ
 
                          どうしよう
 
      怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ
               この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります どうぞ通して下しゃんせ
         怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ
 
                         この子人間じゃないね
 
            行きはよいよい 帰りは怖い               
               行きはよいよい 帰りは怖い
 
      この子妖でもないね
 
            怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ
 
                             通しちゃおうか
 
               怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ
 
                    通しちゃえ
 
「!?」
 歌声に紛れて聞こえていた幼くあどけない複数の声が、戯れのような掛け合いの末に許可を告げる。その途端、余韻すら途切れぬうちに暴力的なほど強い真っ白な光が眼前の鳥居から溢れ、抵抗する間もなく、リクオは深闇から白光へと飲み込まれていった。
 
 
 
「知ってるか? 雷は神鳴とも言い、天の神の―――竜神の鳴き声とも云われているんだそうだ」 
 閉じた瞼の裏に柔らかな光が満ちる。耳を擽る聞き慣れない声に閉じていた瞼を開けば、やはり見慣れない青年が見慣れない姿でリクオを真っ直ぐに見つめていた。
「竜が鳴く刻【とき】に、わざわざこんな結界の地に彷徨い込んで来たお前さんは誰だ?」
 不思議な青年だった。
 服装は、見慣れぬ白狩衣と白差袴。健康的に陽に焼けた肌に目に沁みるような無紋の白が良く映える。
 短い明け色の髪は微かな身動ぎにも柔らかく揺れ、髪よりも色素の薄い明け色の瞳は淡い光の中で金色を帯びる。
 姿だけ見れば年の頃は二十代に見えるが、その金色の双眸にはともすれば飲み込まれそうな深みが在り、長く見つめていると引き込まれそうな気がする。
「こんなところまで迷い込む者がいるとはな。どうした? 迷子になる歳でもあるまいだろうに」
 深みを宿す双眸が驚くほど柔らかく眇められ、何処か悪戯っぽい口調が、無意識に強張っていたリクオの緊張をさらりと解きほぐした。
「あ、その、雨宿りをしようと鳥居に駆け込んだら、無限回廊みたいな不思議な参道に出てしまって」
「無限回廊な参道? ああ、うちのちびどもに連れ込まれたのか。そりゃぁ、悪いことをしたな。雨が止んだら送らせよう」
 リクオの言葉にあっさりと納得を示し、青年は優しい苦笑を浮かべ、すまなそうに頭を下げた。それにリクオはふるふると頭を振り、何処か居た堪れない気分で周囲を見回した。
 其処は、目の前の青年に勝るとも劣らぬ不思議な空間だった。
 夜明け前のような、黄昏時のような、淡い淡い光が均等に満ち、全てを光の中に浮かび上がらせると共に、全てを影の中に沈めている。
 いっそ地平線が見えそうなほど唯々だだっ広いかと思えば、数歩も歩けば端から端に辿り着けそうな狭い空間にも思える。
 唯一目に付く物と言えば、空間の中心に位置するだろう場所に佇む青年と、その背後にひっそりと在る何かの影。
「此処、は……?」
「此処は、そうだな、言ってみれば夫婦の褥、だな」
 無意識に零れ落ちたリクオの問いに、青年が曖昧な笑みを浮かべ背後を振り返った。
「褥?」
「そう、此処は俺の妻が眠っている地であり、俺が彼女の傍にて眠りにつく地でもある」
 青年は振り返ったままリクオを手招き、青年の背後に在った何かの影に優しく手を触れ、すぐ傍に立ったリクオにそれを示すようにゆるりと振り返った。
「コレが何か解るか?」
 その影は、近くで見ると精巧に作られた人形【ひとがた】の石像に見えた。
 幾えもの注連縄を掛けられた封じの中心には、両側頭部からそれぞれ二本の角を生やした紅の着物を纏った美しい女が硬く目を閉じ立っていた。その肌は透けるように白く、その唇は花弁の如く艶やかに紅い。背の半ばまで覆うぬばたまの髪を無造作に下ろし、細く容良い両手を身体の前で軽く組み、ただ静かに佇んでいる。
 美しくたおやかな女。しかし、その抱きしめれば折れそうな細い体躯は、柔らかさとは対極の硬さを手を触れずとも見る者に無言で伝えて来た。
「コレは俺が封じた俺の妻だ」
 青年は優しく、熱も柔らかさも伝えぬ妻の頬を撫でる。
 まるで女童【めのわらわ】が人形【にんぎょう】を愛撫するような仕草で、だが確かに命在る者を、愛しい者を慈しむ仕草。
 視線を外すことも出来ず、ただ声も無く見入るリクオの存在を意識の端に残しているのかどうか。青年は唯々もの言わぬ妻の硬く閉ざされた双眸を見つめ、淡々と言葉を紡いだ。
「別に、特別な理由でも、大した理由でもない。
 俺が遠い祖先である竜の先祖返りであるのと同じく、深涼【みすず】は遥昔に交わった鬼の血の先祖返りで、ある日彼女は鬼の血の衝動に人間の心を蝕まれ、最後に繋ぎ止めた理性にて俺に止めてくれと願い、俺はその願いを叶えた。
 ただ、それだけの事だ」
 酷く淡々とした、感情の欠落した口調。
 その時の青年の心情を慮ることなどできやしない。できるわけもない。だが、
(もし、『彼』の毒血が暴走して、『彼』自身でも止められなくて―――)
 もし、それがリクオ自身を傷つけるなら、『彼』は躊躇い無く『彼』を止めろと、殺せと言うだろう、と。
 考えが至った時、ぞくりと背筋を冷たいものが伝った。
 己が手で、愛する者を止める。
 その鼓動を止め、その脈動を止め、その命の音色を止める。
 いったいどれだけの痛みだったのだろう。
 いったいどれだけの苦しみだったのだろう。
 いったいどれだけの哀しみだったのだろう。
 こんなにも、思うだけで狂いそうになるのに―――
 振り返らぬ背中から微かな笑みを漂わせ、青年はゆっくりゆっくり妻の頬を撫でる。
「深涼の先祖は実に剛毅な女でな。巷を騒がせていた酒天童子に惚れて、自分から追っかけてって妻になった女だった」
 ふわりと、溶ける様な笑みを浮かべ、妻を見つめる。頬を撫でていた指先が、細い鼻梁を辿り、閉ざされた瞼をそっとなぞった。
「心底鬼を愛した女を鬼も愛し返し、やがて女は愛する鬼の子を孕んだ。
 鬼が都の討伐隊の手に掛かった際、鬼の手により安全な地に逃がされていた女は、その地で元気な女の赤子を産んだ。そして、その女児もまた長じて女児を生み―――そうやって深涼の祖先は、女児の血にのみ鬼の血を宿してずっと鬼の血を繋いで来たんだ」
 瞼を辿った指先が、反対側の頬を辿り包み込む。
「そして、継がれ続けた鬼の血は深涼の代で顕現し、深涼の人間の心を押し潰した。
 皮肉なもんだな。鬼を愛した女の血を、女を愛した鬼の血が傷つける。女も鬼もこんな未来望んじゃいなかったろうに、な」
 紅い唇を辿った指先が端からぱたりと落ち、身体の脇で拳に握られた指先から薄っすらと赤い血が滴る。
「人間の血が流れている以上、いつかは鬼の血と人間の血の均衡が取れ、深涼は再び目覚めるかも知れない。幸い、俺には彼女の目覚めを待つ時間は十分ある。竜の先祖返りなんてけったいなもんなばっかりに、俺にはいっそ生き飽きるほどの寿命があるからな」
 額を冷たく硬い肩に押し付け、青年は硬く瞼を閉ざした。
「待つさ。いつかもう一度、深涼が己の血を全て制して目覚めるのを。それが、俺が彼女に示してやれる想いの形だ」
 再び開いた双眸は、人間に在らざる縦に長い瞳孔の金瞳をしていた。
 リクオは青年の所作をただ無言でつぶさに見ていた。
 紡ぐ言葉以上に雄弁に、その想いを語る指先を唯々じっと見つめていた。
 妻に触れる指先はあくまで優しく、愛しげで。
 愛おしいと。
 いと惜しいと。
 言葉にせぬまま伝えてくる。
「さあ、そろそろ雨も止む。
 待つ者のところに、帰りたい者のところに、疾く帰るといい」
 音も無く振り返った青年が、静かにリクオの背後を指差す。振り返れば、さっきまで存在しなかった鳥居が、時の凍った空間に、雲間から刺す陽の光を優しく注いでいた。無言で一礼し、鳥居に歩み寄る。零れ込む温かな陽の光が、身体を心を優しく温めた。
 鳥居を通り抜ける間際、一度だけ振り返る。
 鬼女の像を抱くようにとぐろを巻いた竜が、瞼を閉じ、封じられた妻の肩口にそっと顔を伏せていた―――
 
 ―――ぐにゃり。
 
 行きと同じように全身を違和感が通り抜ければ、其処は石造りの鳥居から一歩踏み出した所だった。背後を振り返っても、零れそうな新緑を湛える木々が生い茂るばかり。
 
 あの何処までも続く石段も。
 あの何処までも並ぶ鳥居も。
 あの何処までも深い深闇も。
 あの何処までも広く何処までも狭い不思議な空間も。
 そして。
 あの哀しい哀しい竜も。
 もう、振り返っても何処にもいない。
 
 無言で立ち尽くすリクオに、背後から声がかけられた。 
「こんにちは。参拝のお客さん?」
 急に現実に引き戻され、慌てて振り返れば、薄い学生鞄を小脇に抱えた黒髪の少年が、歩道からリクオを見上げていた。
「そっちは裏参道だから、表に回って貰ってもいい? 其処は神様の帰り道だから」
 「こっち」と歩道の少し先の曲がり角を指差す少年に急いで頭【かぶり】を振り、まだ多少夢と現を彷徨う頭を強く振って無理やり余韻を振り払うと、リクオは一つ瞬きしてから意識してゆっくりと声を紡いだ。
「あ、いえ、雨宿りしてただけなんで」
「っそ?」
 胸の前で手を振り答えるリクオに少年はあっさりと答え、これ以上は何を言うでもなく歩道の先へと歩き出した。
「あ、そだ。コレ」
 しかし、すぐに歩みを止めるともう一度リクオに振り向き、片手に持っていた畳んだ傘を放り投げる。
「え!? あのっ」
 綺麗に手元に落ちてきた傘を危なげ無く受け取りつつも慌てた声を出すリクオに、少年は今度こそ歩みを止めることなく後ろ手でひらひらと手を振った。
「また降り出すと困るだろ? 俺、家【うち】此処だし、返さなくていいから」
 此処、とリクオが背にする山の上を指差し、少年は先ほどリクオに示した曲がり角を曲がって行く。リクオは手の中の変哲の無いビニール傘に一瞬視線を落とし、去って行く少年に向かって声を張り上げた。
「ありがとう」
 もう見えなくなった少年に聞こえただろうかと思っていると、曲がり角の向こうから淡々とした声だけが返ってきた。
「気をつけてな。―――もう、妙な道に入り込まないように」
 目を見張り、慌てて曲がり角に駆け寄ったが、もう其処に少年の姿は何処にも無かった。
  
 道を真っ直ぐ歩いて行き、振り返っても石造りの鳥居が見えなくなった頃、またパラパラと雨が降り出した。黒髪の少年に渡された傘を広げ、ふと振り返る。天の雲間を渡る紫雷の慟哭の下、一瞬、山頂に赤い鳥居の連なりが見えた気がした。
 
 
 
 
 
 会いたくて、どうしうようなく会いたくて。
 殆ど無意識に『帰り』着いたのは、年上の幼馴染の屋敷だった。 
 いつものように庭の木戸から勝手に入れば、幼馴染は濡れ縁で雨に濡れる新緑を楽しんでいて、元気そうな姿に思わずほっと息を吐く。しかし、天から降り注ぐ慟哭する竜の涙越しに見る景色は酷く不安定で、水の線の向こうに見え隠れする姿に不意に言いようの無い不安が込み上げた。
「鴆」
「どうした? リクオ。こんな雨の中、わざわざ歩いて来たのか?」
 首を傾げながらも何か拭く物を持って来ようと腰を上げかけた鴆に何も答ぬまま、リクオは鴆の胡坐を掻いた膝の上に乗り上がると、派手な着流しの袷から右手を差し込んだ。
「リクオ?」
 心臓の真上に這わせた手のひらに、トクトクと音を立てて巡る血液の流れが伝わってくる。戸惑う鴆を真っ直ぐ見つめ、男の右手を左手で取ると己の心臓の真上に這わせる。互いの手のひらの下、温かな熱と共に心臓の鼓動が伝わって来る。
 互いの手のひら越しに伝い響くは命の音色。
 これは、いつかは止まってしまう音色。生粋の妖の短命が具体的にどれだけなんて分からない。しかし、確実に、いつかこの音色はリクオよりも先に止まるのだ。それは、不確定な未来の唯一の確定。でも、だからこそ、より一層に、今まさに命刻み続けている証たるこの音色が愛おしい。
 確かに伝わってくる鼓動に自分でもどうしようも無いほどの安堵と愛しさが溢れ、リクオは閉じた双眸から静かに涙を零した。
「リクオ……」
 何かを伝えたいのに言葉にならなくて、もどかしげに唇を振るわせたリクオは、左手で鴆の頭を抱え唯々深く唇を合わせる。その想いに応えるように、鴆もまた左腕でリクオを抱き寄せ深く深く舌を絡ませた―――
 
 
 
「ん、ぅ……」
 夢現【ゆめうつつ】のまま無意識に傍らの熱を手探るが、意識を飛ばす前は確かに在った筈の恋人は傍らに無く、熱を分け合った褥で独り目を覚ましたリクオは、うつ伏せのまま両肘を突いてゆっくりと上半身を日溜りの匂いがする寝具から起こした。
「鴆……?」
 雨の冷気が薄っすら滲み込んでいた部屋は、打って変わってすっかり夜の闇に包まれ、夜行性の鳥が鳴く声が遠く近く響いてくる。身体の奥から湧き出す熱にふるりと頭を振れば、結えるほど長い銀髪が僅かな月明かりを集め闇に軌跡を描いた。
 
 ―――チャポン。
 
 静寂を縫って耳に届いた水音を辿って襖に目をやれば、細く開いた隙間から濡れ縁に腰を下ろす後姿が視界に映る。
「鴆?」
 気だるい裸身に手近に在った派手な柄の一回り大きな着流しを纏い、見当たらない帯を見つけるのも面倒で衿を片手で掻き合わせただけで、リクオは濡れ縁にて独り手酌で盃を傾ける男に歩み寄った。
「リクオ? 目が覚めたのか?」
 鴆の声に応えず、少々乱暴に背中合わせに胡坐を掻き、無言で盃を奪い取って一息に飲み干す。空になった盃を振り返りもせず無言で差し出せば、微かな笑う気配と共に徳利から馨しいとろりとした透明な液体が朱塗りの盃に並々と注がれる。水面に映る細い十六夜の月影をゆっくりと揺らし、リクオは再び盃の中身を一息に干す。空になった盃をぽいっと放り出し、背後から覆い被さるように男の顔を見下ろすと、そこそこ日に焼けた咽に手を添えて仰向けせ、口移しで含んだ酒を流し込んだ。
「んっ…ぅ…ん……は、ぁ……っ」
 
 ―――クチュリ、クチュ……
 
 闇の中、互いの唇を貪る水音が響く。酒と唾液が混ざり合い、飲み込み切れなかった液体が男の咽を伝い、着崩された単の袷の奥に滑り落ちていく。
「っは……ん、ぅ…は、ぁっ……」
 
 ―――ピチャ、ピチャ……
 
 鴆はリクオを片手で引き寄せながら、さらに深い口付けを仕掛け、まだ色事に不慣れな幼い恋人を煽り翻弄する。口付けに夢中になっている間に、いつの間にか鴆の膝を跨ぎ胡坐を掻いた膝の上に座らされていたリクオは、しなやかな両腕を鴆の首に伸ばし、頭を抱え込むとより深く口づけを求め舌を差し込んだ。
「は、ぁっ……ん、んっ……は、っ…ぁっ」
 
 ―――クチュ、ン。
 
 荒い息を吐く二つの唇の間を銀糸が繋ぎ、ぷつりと切れて玉を結び落ちる。
「ん…は、ぁっ……ぜ、ん……」
 足りないと言いたげに鴆の頭を抱き寄せ唇を寄せるリクオの背を片手で支え、鴆はもう片手を袖を通しただけの着流しの内側に差し込み、味わうようにゆっくりと熱った裸身に手のひらを這わせる。そのじれったさに眉を顰めたリクオが鴆の鼻の頭に軽く噛み付き潤んだ金瞳で男を睨めば、面白がるような色を乗せた双眸がゆるりと笑んだ。
「そう焦んなよ」
 お返しとばかりに鼻の頭に小さく口付けられて、目を細める。何処か幼い表情を浮かべたリクオに笑いかけ、鴆は柔らかく艶付く身体に口付けを落とした。
「はっ、ぁ……っ」
 夕刻に熱を交わしたばかりの身体は未だ鋭敏なままで、愛撫とも呼べない些細な触れ合いだけで甘い嬌声が零れ落ちる。日頃はそれでも無意識に声を抑えようとするリクオも、今夜はただ感じるままに声を上げ、鴆の身体にしがみつき自ら身体を開いていった。
「ぜ…ん……」
「リクオ……」
 触れ合う素肌から命の脈動が伝わる。
「んっ…ぁ……ァっ」
 手のひらから手のひらへ。
「リク、オっ」
 唇から唇へ。
「ひっ……ぁっ……や、ぁっっ」
 中心から中心へ。
「愛してる」
 心臓から心臓へ。
「は、ぁっ……ンっ…ぜ、んっ」
 魂から魂へ。
「く、ぅ……リク、オ」
 身体中、余す事無く伝わって。
「んっ…ぁっ、ァッ……ひゃ、ァァぁぁぁっっっ」
「く、ぅっ」
 魂さえも共鳴すれば良い。
 
 
 
 明方の薄闇の中、ゆっくりと意識を浮上させたリクオは、己を確りと抱きしめる男の腕の中で小さく身じろいだ。リクオを抱きしめる腕の強さは苦しくなる一歩手前で、腕の中に確り恋人を抱え込んで眠る表情は至極安らか。
 何とも分かり易い無意識の仕草に、何とも言えない気分で小さく小さく息を吐く。
(ホント、どうしようもないなぁ)
 何が一番どうしようもないって、男のこんな無意識の仕草こそを堪らなく愛しいと想う己こそが一番どうしようもない。
「鴆……」
 言葉にならぬ想いを刻み込むように、目の前に確かに在る眠る男の心臓の真上に強く吸い付き、紅い後を一つ残した―――
 

 

 

inserted by FC2 system